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2010年12月

2010年12月29日 (水)

さようなら2010年

今年もいよいよあと2日(+本日の残り時間)。

***

 さようなら一万年  草野心平

闇のなかに。
ガラスの高い塔がたち。
螺旋ガラスの塔がたち。
その気もとおくなる尖頂に。
蛙がひとり。
片脚でたち。
宇宙のむこうを眺めている。

   読者諸君もこの尖頂まで登って下さい。

いま上天は夜明けにちかく。
東はさびしいNile blue で。
ああ さようなら一万年 の。
楽譜のおたまじゃくしの群が一列。
しずかに。
しずかに。
動いている。
しずかに。
しずかに。
動いている。

   「さようなら一万年」はカルピによって作曲された最も一般的なエレジーである。

『草野心平詩集』 ハルキ文庫 より

***

ガラスの高い塔の上。その気もとおくなる尖頂に、私は登った。
そうして、2010年を眺めてみる。

「さようなら2010年」のメロディーとともに、はるか遠い地上のうえで、小さな私が、しずかに、しずかに、動いているのが見える。

その私は、笑っている。嬉しそうにしている。泣いている。怒っている。苦しんでいる。
闇のなかに、透明で壊れてしまいそうな螺旋ガラスの上に、片脚でたつ私は思わずバランスを崩してしまいそうになる。

毎年必ず言ってしまう決まり文句だけど、本当に、今年もいろんなことがあった。

塔の頂にたつ私は、ふと思った。頂、についてである。「頂」――そうだ。今年も私は、ひとからたくさんのものを頂いたものだなあ、と。目に見えるものも。目には見えないものも。

ひととのつながりから頂いた、思いがけないチャンス。
ちょっぴり苦しくなってしまったときに頂いたやさしい言葉。
夢に向かって進もうとする私を支えてくれた励ましの言葉。
特別なものではないけれど一番大切にしたい、日々のやりとりのなかで頂くたくさんのあたたかい気持ち。

むき出しの心は傷つきやすいものだけれど、人から頂いたものたちにくるまれてしっかりと守られてきた。そういうたくさんの頂き物に囲まれて、私は無事、2010年を乗り越えることができた。
私を支えてくださったたくさんのひとたちには、感謝の気持ちでいっぱいです。本当に、ありがとうございました。

塔の上で、小さな小さな自分自身を眺めながら、しずかに、しずかに、年を越したいと思う。2010年にさようなら、とは言っても、2010年が消えてしまうわけではない。そもそも人生は「私」というひとつづきの物語で、ただただ都合のいいように、一年ごとに区切ってあるだけなのだから。いま過ごしている「今年」が、もうすぐ「昨年」と呼ばれるようになるけれど、そんなことはあまり考えない。ひとつづきの自分を眺めながら、また一日一日、一歩一歩を踏み出していけたらいいなと思います。

それでは、都会さようなら。数日間ふるさとで過ごします。

よいお年を!

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2010年12月27日 (月)

とっておきを君に。

メリークリスマス! 

「って、遅いじゃないか!」 

・・・だって、私たちのクリスマスはつい昨日のことだったのだよ。

...

クリスマスとお互いの誕生日、年に2回の特別な日に私たちは本を贈り合う。知り合った学生時代からもうずっと続いていることで、今年は14年目だ。1回につきだいだい2冊だから、これまでに50冊以上の本を贈り合っていることになる。

本を贈り合おうよ、とはっきり決めた覚えはないのだが、いまはもう欠かせない恒例行事。

ところで、彼女はとにかく本が好きだ。「もう活字から離れられなくって。トイレに行くほんのひとときでも活字がないと不安になっちゃって、どうしよう」なんて言ってたことも。もちろん彼女の部屋は本であふれている。

そんな彼女に本を贈るというのだから、私の本選びには、本に(まことに)気合いが必要だ。品揃えや提案のしかたがほかとはちょっと違うお店や、小さいけれどこだわりの絵本ショップを発掘してはどこまでも足を運ぶ。
これこそが、とても楽しい。彼女のツボを刺激しそうな1冊を見つけたときには、もう、渡すのが楽しみで仕方なくなるのだ。

彼女から贈られる本はもちろんとびきり素敵なものばかり。それは、彼女がすごくたくさんの本を読んでいるということがまず最初にある。絵本、小説、文庫本、漫画、エッセイ、写真集、実用書・・・心穏やかにさせてくれるもの、笑っちゃうもの。消しゴムハンコや手ぬぐいなど、なにかに夢中にさせてくれるもの。

でもやっぱりね、彼女が私に、選んでくれる、ということなのだ。手袋やマフラーなどのプレゼントとはちょっと違う。本って、選ぶ人の心にも相手の心にももぐり込んでいくもの。相手の心に似合うものを選びたいって思う。

「今年も、私のとっておきを贈ります」 ある時、本と一緒に手紙が添えられていた。彼女には、とっておきの作家さんが何人かいるらしい。その作家さんを、本を贈ることで私にすこ~しずつ教えてくれているのだ。
でも一番のとっておきは、自分だけのものってことらしい。そういうの、あるよね。自分だけの中でキラキラしているもの。人に教えちゃうとなにかが変わってしまいそうで、もったいなくて。
けれど、涙をのんで、ギリギリのところを私に教えてくれてるのがとびきり嬉しいのだ。

もちろん、

「君のとっておきは、私のとっておき」

なんて言葉は私たちには似合わないから決して言わないけど、そうかと思われる事件があるとき起こったね。

あるクリスマス、お互いにわくわくしながら包みを開けていく――。先に声をあげたのは私だった。笑った。「いいから早く見てみ!」――次の瞬間、彼女も思い切り、笑った。

お互い手に持った本を見せ合うと・・・それは、まったく同じ本! (梅佳代写真集『うめめ』という本でした)

昨日もまたとびきりの本を贈り合い(お互いに、自分が選んだ本には自信満々なのです!)、素敵なクリスマスのひとときを過ごすことができた。

たとえば80歳まで続いたら、このさきまだ200冊もの本を贈り合えることになる。わくわく。嬉しいね!

「これからも、ずっと友達でいようね」

なんて言葉は私たちには似合わないし、こんなこと言ったら逆に君は逃げていくだろうから言わないけど、まあお互い元気に生きている限り、こうして本を贈り合っていけたらいいものだね。

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2010年12月25日 (土)

イワシと翻訳~描ききるということ

おとといの夜テレビをつけていたら、偶然、私の大好きな金子みすゞさんの詩が登場した。

***

 大漁  金子みすゞ

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ

はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

***

番組は、NHKのヒューマンドキュメンタリー「風の画家 “いのち”を描く」2010.12.23放送。

愛らしい子どもたちを繊細なタッチで描いた童画作品を数多く生み出している画家、中島潔さん。今回は、彼が5年かけて取り組んできた、京都・清水寺の襖絵46枚のうち評価の高かった「大漁」という作品スポットが当てられていた。

金子みすゞの詩「大漁」に魅了された彼が、その世界を絵にしていく。それ以前にも彼は「大漁」の作品を残していたが、今回は第4作目に取り組む様子が放送されていた。

「大漁」を描いていた途中に、彼は父親の死に遭遇する。身近な父親の死を目の当たりにした彼は、「何もわかっていなかった」と、これまでとは違う新たな「大漁」を描きはじめる。

これまで描いていたのは、死にゆくいわしと、そのいのちの儚さを寂しげに見つめる少女の姿。
しかし、そうではないのだと。「もう一度、生き返らせて書きたい」――これまで使わなかった鮮やかな赤をいわしの体に入れていく。体の中に流れる血を、“いのち”をふきこんでいく。大量のいわしが、死に絶える姿ではなく、いのちを持った姿で力強く描かれていく。

何度も何度も筆をとり、「大漁」という詩のなかに息づく“いのち”を描ききろうとする中島さんの姿がとても印象的だった。それは人生との、自分自身との闘いであるようにも見えた。

果たして、いま私が取り組んでいる、翻訳というものについてはどうだろうかと、ふと思った。原文にこめられた筆者の思いを、そこに息づくいのちを、描ききることができているのだろうか――。

中島さんは、父親の死をもってはじめて「何もわかっていなかった」と感じ、それまでとはまったく違ういわしを描くこととなった。それは、金子みすゞの「大漁」の文章をさらりと絵に置き換えることとはまったく違う。金子みすゞの思いを、自分のこれまでの人生すべてが含まれた心で何度も噛み砕くことによってしっかりとつかみきり、そこではじめて自分自身の表現で描きはじめる準備が整ったといえるのであろう。

翻訳の場合もそうなのではないだろうか。辞書を引き、言葉をあてはめてさらりと文章に置き換えることとはまったく違う。筆者の思いを、自分のこれまでの人生すべてが含まれた心で何度も噛み砕くことによってしっかりとつかみきり、そこではじめて自分自身の言葉で訳出できる準備が整ったといえるのであろう。

原文が、その書き手の人生であるとすれば、翻訳者もまた自身の人生をかけてそれを読み込み、訳文のなかに描いていかなければ本物にはなり得ない。ちょっと大げさかもしれないし、私は修行中の身で本1冊だって訳したことがないから全然わかっていないのかもしれない。でも、中島さんの、いわしに臨む姿勢は並大抵のものではなく、まさに「人生をかけた」姿だったのだ。

参考 NHKクローズアップ現代5月放送分 (動画で中島さんの描く姿といわしが見れます)

筆者の思いを描き切るために――。さあ今日も翻訳修行に励もう。机の上の勉強だけじゃなくって、本当に、毎日の生活からいろんなことを吸収して自分の心を豊かに育てててあげることも、本物の翻訳者になるための大切な修行だな!

クリスマスの夜に熱くなってしまいました・・・。これはきっと翻訳LOVE。「イワシと翻訳LOVE」。(どこかで見たことがあるこのフレーズ。でもにせもの。本物はコチラ→イワシの翻訳LOVE

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2010年12月23日 (木)

ゆずと遊ぼう~冬至の夜に

片想いとゆずの香りのつづきです。

...

とうじとうじつ(冬至当日)。昨日いただいたゆずの実を2つ、たっぷりと湯をはった湯船に浮かべた。ゆず湯の作り方には、そのまま浮かべる、薄切りまたは半分に切って浮かべる、汁をしぼるなどいろいろあるようだが、私はまるごと浮かべた。何より、まるくてかわいらしいそのままの姿のゆずの子たちと一緒にお風呂に入ってみたかったのだ。

その子たちは、おしりを上に向けてぷかりと浮かんだ。ひっくり返しても、何度やってもやっぱりおしりが上になる。2人は、お湯の上をなめらかにすべって近寄ったり離れたり、私のそばにやって来たりした。手のひらでポーンと遠くにすべらせてみたりまたつかまえたり。私は、しばらくのあいだ、そうやってゆずの子たちと楽しくたわむれていた。

かすかに、そのゆずの子たちのいい香りがただよっていた。

私はおもむろにゆずの子を手にとると、湯の中でぎゅっとにぎってみた。香りが強くなる。
ようし! 思い切って、皮をむく。そしてその皮を大きめにちぎって湯の表面にちらしてみた。さわやかないい香りがさらに広がる。

さらに中身を小房に分け、口に入れる・・・のはどうにか思いとどまって、その小房を手でつぶす。あふれ出た果汁と果肉が湯となじんで、湯がとろとろとしてきたような気がした。まるで、幼いころよく飲んだつぶつぶ果肉入りミカンジュースのよう。

小房のその透明のふくろの感触がとても気持ちいい。ためしに肌の上をすべらせてみると、すべすべしてとってもいい感じ。こうなったら、顔の上も! 本当に、お肌つるつる潤っていく。

そうやって、思う存分ゆずの子たちと触れ合って遊んだ。お風呂でこんなに遊んだのは久しぶり。お肌すべすべ気持ちもリフレッシュ。ゆずの子たち、ありがとう!

ゆずの子たちをくれた身体測定の彼女に、明日お礼を言わなくちゃ。

いつもとびきりのほほえみをくれる彼女に、私も最高のほほえみを返さなくちゃ。

***

 ほほえみ   川崎洋

ビールには枝豆
カレーライスには福神漬け
夕焼けには赤とんぼ
花には嵐
サンマには青い蜜柑の酸
アダムにはいちじくの葉
青空には白鳥
ライオンには縞馬
富士山には月見草
塀には落書
やくざには唐獅子牡丹
花見にはけんか
雪にはカラス
五寸釘には藁人形

ほほえみにはほほえみ

『ほほえみにはほほえみ 童話屋』より

***

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2010年12月21日 (火)

片想いとゆずの香り

ゆずの実を、いただいた。そう、明日は冬至。

...

私が勤める健康管理センター(健康診断を行う施設)で、毎日、身長・体重の計測をしている女性がいる。

小柄で、素朴で、とてもやさしい笑顔が印象的な彼女。受診者さんひとりひとりに本当に心をこめてあたたかい対応をする。受診者さんもそんな彼女に計測されてきっと嬉しいだろう。

朝職場に着きそこを通ると、彼女はいつもとびきりの笑顔で「おはようございまーす」と私を迎えてくれる。
健診が落ち着いたお昼近くに通れば今度は「お疲れさまです」と、やはりキラキラの笑顔。次の健診に備えて検尿の紙コップを必死で数えているにもかかわらず、そして、私が、邪魔しちゃいけないと軽く頭をさげながら静かに通り過ぎようとしたとしても、それでも彼女は必ず手を止めてにっこりとほほ笑んでくれるのだ。

「今朝、ちょっと元気ないみたいだったけど、大丈夫?」彼女が言う。あぁ、今朝は彼女がちょうど受診者さんと話をしていたから、あいさつの声も小さめにして、さっさと通り過ぎてしまったっけ。いつもと少しだけ違っていた私の様子を気にしていてくれたんだ・・・。なんて気持ちのやさしいひとなんだろう。

彼女との交流は、朝一番と昼近くの2回だけ。交わす言葉もひとことだけ。ほんの一瞬なのだけど、いつしか彼女とのこの「ほほ笑み合い」は、私にはなくてはならない小さな楽しみになっていた。

そういえば、下の名前も知らないし住んでいる場所も知らない。それなのに、彼女のことがなんだかとても気になる。

そんなある日の昼休み。ふと気づくと、彼女がいつものようにほほ笑んで遠くから私を手招きしていた。午前中のみの勤務の彼女、かばんを持ち、帰るところらしい。
「さつまいもは、好き? 旅行のおみやげ、よかったらたべて。ひとつしかないから・・・」ないしょ話くらいの小さな声でそう言って、こっそりと、小さな包みを手渡してくれたのだ。

嬉しかった。とてもとても、嬉しかった。そして・・・わかった。はっきりと、わかった。この気持ち。彼女への想い。――それはきっと、片想い。そう、そうなのだ。いつも笑顔をくれる彼女に私はいつの間にか惹かれていたのだ。
思いがけずもらった小さなお菓子と彼女のあったかい心。あこがれのあの子に近づけた、ぴょんぴょんととび跳ねるようなこの気持ち。

そして今日。その日と同じように、彼女が私を手招きしてくれている。「ゆっくりお風呂につかってね」彼女の手には、小ぶりのゆずがふたつ、乗っかっていた。彼女の家で育てていたものだという。ひとつは緑の葉っぱが3枚ついていて、もうひとつはそれよりひとまわり小さなもの。まるで親子みたいな、それとも恋人同士かも。

そーっとにおいを嗅いでみる。ピュアでみずみずしくて、でもほのかな甘さが含まれたやさしい香り。彼女のやさしい心が、私の心のすみずみにまでしみ渡っていくようだった。ほかのだれにも見つからないうちに、私はそれをそっとかばんにしまった。

私にとっては、それが男性であっても女性であっても同じなのだ。ひとりの人を好きになっていくときのあの感じ。ひそかに想いを寄せていたひとに少しずつ近づいていく、ドキドキするこの感じ。つぼみだった桜の花が開いて一気にピンク色になるような、夕立ちが止み、一気に雲ひとつない青空が広がるような・・・。

ほほ笑みだけでつながることができていたことがとても嬉しい。それは、彼女だったから。彼女のほほ笑みがあったから――。

***

 わらい   金子みすず

それはきれいなばらいろで、
けしつぶよりかちいさくて、
こぼれて土に落ちたとき、
ぱっと花火がはじけるように、
おおきな花がひらくのよ。

もしもなみだがこぼれるように、
こんなわらいがこぼれたら、
どんなに、どんなに、きれいでしょう。

『わたしと小鳥とすずと JURA出版局 より』

***

明日はゆっくり、ゆず湯につかろう。彼女のくれた気持ちと一緒に――。

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2010年12月18日 (土)

にぎやかであり、さみしくもあり。

昨日は職場の仲間たちとスペイン料理のお店に行った。ささやかな忘年会である。店に入ると、大きなテーブル席で忘年会(たぶん)をするサラリーマン集団などですでににぎわっている。豆の煮込み、鶏レバーのパテ、パエリア、コカ(スペインのピザ。もちもちでとてもおいしかった)、イベリコ豚の串焼き・・・ほかにもいろいろ。スペイン料理は色もカラフルでにぎやか。特にパエリアなんかはムール貝やエビやイカで飾りつけられててとても華やかだ。それをおいしくいただきながら、思う存分おしゃべりを楽しんだ。

外に出ると、「あっ!」 目の前の東京タワーにかわいらしいハートマークが浮かび上がっている。 さっきまで通常のオレンジ色だったのに、店で食事をしている間にクリスマス用に着替えをしてくれたみたい。

今の時期、街はとてもにぎやかだ。クリスマスのイルミネーションがきらめき、お店に行けば、クリスマスソングが流れ、どこもかしこも赤と緑で彩られている。そして夜には忘年会でさらに活気づいていく。そんな街の雰囲気は大好き。ウキウキする。

でもなぜだか、そんなにぎやかさのなかで、ふっとさみしさを感じてしまうことがある。私には、にぎやかさの裏にさみしさが隠れている気がしてならない。表がにぎやかであればあるほど、きらびやかであればあるほど、裏のさみしさは大きくなる。
そして、そのにぎやかな場所から離れてひとりになったとき、そのさみしさは決定的となる。もう逃げも隠れもせず、私の目の前に堂々と姿を現すのだ。

仕方がないよ。外はあまりにもにぎやかすぎたんだ。それに、寒すぎるんだもの。吹きさらしにされていた心を毛布でしっかりとくるんでやらなきゃダメだよ。

***

 デンシンバシラのうた   草野心平

そんなときには。いいか。
デンシンバシラとしゃべるんだ。

稲妻が内部をかけめぐり。
丸い蜜柑がのけぞりかえる。
そんな事態になったなら。
白ちゃけて。唸るようにさびしくなったら。
人じゃない。相棒になるのは。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

デンシンバシラはゆすっても。
デンシンバシラは動かない。
手のない。指のない。見えない腕で。
デンシンバシラは。しかし。
お前を抱くだろう。

ありっこない。そんなことが。
そんなことの方がまだあるんだ。

ちぐはぐで。ガンジガラメで。
遠吠えしてもまにあわない。
そんなときには。霙(みぞれ)にぬれて。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

『草野心平詩集 ハルキ文庫 より』

***

にぎやかさとさみしさの狭間で自分の心をなんとかやりくりしていこう。デンシンバシラとしゃべるんだ。私にはデンシンバシラがいる。

・・・なんだかさみしいばかりみたいに書いてしまったけれど、まだまだにぎやか楽しみなことがちゃんと待ってくれている。姉と母と、それから友人へのクリスマスプレゼントもちゃんと準備したし、年末の帰省に向けて切符もしっかり買ったし、あとは、新年に向けてのいろいろな準備だって楽しみ。大掃除とか、年賀状とか、やらなきゃいけない作業とか、それから一年間でごしゃごしゃになっている心もしっかり整理しておかなくちゃ。

 

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2010年12月15日 (水)

星降る夜に~願い事の上手な唱え方

昨日はふたご座流星群のピークの日。夜10時ころテレビのニュースを見ていたら、大勢の人たちが広場に寝転んで観測している様子が映った。

私も見てみようっと! 見えるかな~。わくわく。窓から首を出して空を見上げてみる。しかし、残念ながら雲が広がっており、空の部分はわずかなその隙間だけ。今日は無理なのだろうか。

寝る支度をする前に、もう一度チャレンジ。時刻は11時半をまわっている。おや? 澄み渡る黒い空に星がちかちか光っているのが見えた。晴れてる!

玄関を出た私は思い切り背中をそらせて空を見上げた。さっきテレビで、オリオン座の辺りを見よと言っていたっけ。ぐるりと見渡すと・・・あ、あった、オリオン座! 屋根が少し邪魔をして上3分の2ほどしか見えなかったけれど、この辺りを眺めていれば流れ星は見えるはず。

と、そのとき。

本当に一瞬すぎて確信が持てないが、でも確かに見えたはず、というような不思議な感覚だったけれど、やはり私はそれを見たのだ。今のは間違いなく流れ星!

早くもひとつめを見れてウキウキ。でも、願い事を唱えるひまなんてまるきりなかった。
ようし、次は。そう思って再び天を仰ぐ。すると・・・。

「あー、流れたー!」

2つめは、さっきより明るく輝きながら、左から右にすぅーっと尾をひいていくのがはっきり見えた。流れ星、素敵だ~。
あっ、でも。・・・しまった! 「あー、流れたー」とつぶやいているうちに消えてしまった。願い事のことなどすっかり忘れていた。次こそはと再び見上げる。しばらくして・・・。

「あっ、きたきた!」

3つめ。・・・またもや願い事失敗。どうしても、このような言葉をつぶやいてしまう。
今日は流れ星が見れることがわかっているという恵まれた状況なのにちっともうまくいかない。
作戦変更だ。こうなったら、願い事を繰り返し唱えつづけていることにしよう(ちょっとずるいけれど)!

そして4つめ。言えた! ただ、文章の途中で星が消えてしまった気がする。再チャレンジしなくては。もっと早口で、そして「~になりますように」は長いので、「~になる!」と言おう。

そしてそして、ついに5つめ。今度は完璧。うまくいった! 満足した私は部屋に戻った。

ほんの15分くらいの間に、5つもの流れ星に出会うことができた。本当に夢を見ているような感覚。
ろうそくの火がともるように何もないところからふっとあらわれたかと思うと、たちまち漆黒の闇に吸い込まれて消えてしまう。その姿は神秘的でとても美しい。

***

 いちばんぼし  まどみちお

いちばんぼしが でた
うちゅうの
目のようだ

ああ
うちゅうが
ぼくを みている

『まどみちお詩集 ハルキ文庫 より』

***

私と5つめの流れ星だけが知っている私の願い事、どうか叶いますように。

 

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2010年12月14日 (火)

ゆっくりゆっくり。

気づけばもう12月も後半・・・。

ますます街はにぎやかにそしてあわただしい雰囲気となっていくのであろう。

あれやらなくちゃ、そしてこれもやっておきたいし・・・。せわしない毎日だけど、一日のうちほんの少しでも、ほっとひと息、頭と体をゆっくり回転にさせてあげる時間を作りたい。

***

ゆっくりゆきちゃん  谷川俊太郎

ゆっくりゆきちゃん ゆっくりおきて
ゆっくりがおを ゆっくりあらい
ゆっくりぱんを ゆっくりたべて
ゆっくりぐつを ゆっくりはいた

ゆっくりみちを ゆっくりあるき
ゆっくりけしきを ゆっくりながめ
ゆっくりがっこうの もんまできたら
もうがっこうは おわってた

ゆっくりゆうやけ ゆっくりくれる
ゆっくりゆきちゃん ゆっくりあわて
ゆっくりうちへ かえってみたら
むすめがさんにん うまれてた

『わらべうた続 集英社 より』

***

こんなふうに日々を送れたら心穏やかでいられそうなのだけど。なかなかそうはいかない。休日にはゆっくりできるかもしれないが、それを終えればまためまぐるしい日々が戻ってくる。一瞬にして現実に引き戻されてしまう。

日々のこのせわしなさは、そもそも子どものころから――学校という「社会生活」によって体験させられてきたものであったように思う。
学校には時間割というものがある。楽しい楽しい給食時間も、きっちりと時間が決められている。小学校なら1年生から6年生まで、すべての子どもと先生が決められた時間までに決められたメニューを食べ終えることが目標とされる。

時間内に食べ終えることができたら金シールがもらえ、金シール5個でごほうびシール(花など絵柄がついたシール)がもらえる。小学1年生のときこのようなシステムがあって、食べるのがはやい子のお道具箱にはごほうびシールがたくさん貼ってあった。

一方、食べるのが遅い子といえば、給食後の掃除にそなえて全員の机が教室のうしろに寄せられた、そのなかに埋もれるようにして食べ続けなくてはならなかった。昼休みで、ほかの子たちはみんな外に行ってしまっている。なんと孤独でみじめな光景だろう。

私はそこまで遅いわけではないが、それでも時間内に食べ終えるため一生懸命だったと思う。小学生にとって、30分に満たない給食時間というのはそもそも短すぎるのではないか。一応、グループごとに机を合わせて向かい合って食べるが、ゆっくり食事を楽しむ暇なんてない。「ゆっくりぱんを ゆっくりたべて」なんてできっこない。

なぜ、はやく食べなくてはならないのか。はやい=よいこととされているのか――。
あっ、もしかして、食べるのがはやい人は仕事もはやいと言われるから、いい社会人になるための訓練??

世の中が、ゆっくりゆきちゃんくらいのペースで動いていたら、人々の心に余裕ができて、穏やかな気持ち、優しい気持ちが増えてくると思うのになぁ。

むかし学童保育でアルバイトをしていたとき、子どもから「お姉さん、おじゃる丸みたい。ゆっくり、ゆーっくり!」と言われたことがある。子どもと遊んでいると、自然に気持ちもゆったり、行動もゆっくりとなっていたのであろう。
この師走にも、バタバタと走らなくてはならない日々であっても、ゆっくりゆーっくりのテンポも忘れず歩いていきたいと思う。

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2010年12月10日 (金)

言ってはいけない!!

今週月曜日。ちょっぴり体の具合がよくないスタートだったが、火、水・・・となんとか持ち直してきた木曜日、やっと調子が出てきたぞと思っていたそんな矢先に、心の端っこがすこしだけ砕けてしまいそうな小さな事件が起こった。

私は現在、電話での受付、問い合わせ対応の仕事をしている。とにかく毎日ひたすら電話をとる。いろいろと対応に苦労することも多いけれど電話をとるのは好きなので、いつもわくわくしながら元気に電話をとる。

その日も、昼休みが終わり席に戻るとすぐに電話が鳴った。さあ午後も頑張ろうと元気に受話器をとる。
・・・相手が話しはじめたとたん、私の背筋は一気にしゃんとなった。電話の主は、かなりご立腹のご様子。聞けば、どうやらこちらの手違いでかなり不愉快な気持ちにさせてしまっていたらしい。ひと通り話を聞き、まずは、謝る、謝る、謝る。心から、申し訳ないという気持ちをこめて、謝る。そのお詫びの言葉をはさむ隙間もないくらいだったのだが、それでもまずはとにかく謝るしかない。たまたまその大当たりの電話をとってしまった代表者として、謝るしかないのだ。しかし・・・相手の怒りはちっともおさまりそうにない。

と、次の瞬間。

「あんたはダメだ!! 代わりなさい!!!!!!」

思わず受話器を耳から離さずにはいられないほどの怒鳴り声。
――びっくりした。本当に、びっくりした。

すぐ横の上司にフルスピードで状況を説明し代わっていただく。彼も、ものすごく丁重に何度も何度もお詫びの言葉を繰り返している。私も、私と同じ電話業務仲間も、ハラハラしながらそれを聞いている。
ところが、ところが――。

「課長! すみませんお願いします!」

どうやら彼も、「おまえじゃだめだ!! もっと上の者を出せ!!」と言われたらしい。

そして課長も数十分・・・。やっとのことで、なんとかその日の対応はそこで終わったみたい。ふぅー・・・。あー、本当に、びっくりした。

こちらのミスで、そのかたにご迷惑をおかけした。不愉快な思いをさせてしまった。本当に本当に申し訳ないことである。

それは本当に、そうなのだけど。でも、だけど、だけどね。

私の心は、とても繊細な私の心は(←自分で言うな!ですね)、一時的なのだけど、しっかりとダメージを受けた。

そう。「あんたはダメだ」というひとことに。

どんなことがあっても、この言葉は口にしてはいけないと、身にしみて思った。
例えば、自分にとってもっともっと近い存在である家族だとか友人だとか学校の先生だとか恋人だとか、そういうひとにこの言葉を言われたらきっと、立ち直るのにさらに時間がかかるほどの大ダメージを受けるに違いない。

今回私と電話主とは、顔も名前も性格も知らない、そのとき初めて、たった2.3分の会話をしただけの仲だ。にもかかわらず、そのひとことは私の胸にぐさりとつきささった。
私の人格などを知ったうえで発せられた言葉ではないから、それを否定されたわけではないことはわかっている。いっときの感情にまかせて出てしまった言葉だということはわかっている。
それなのに、自分はダメな人間なのか・・・と思わせられてしまう恐ろしいひとことだったのだ。

本当にね、口に出してはいけない言葉、人を傷つける言葉って、この世になくてもいいのに、存在する。認めたくはないけど、自分の心の奥底にも、存在するのだ。本当に、気をつけなくては・・・。

***

 かんかん おこりむし  谷川俊太郎

かんかん おこりむし
おなかのなかで なにしてる
だいじなしっぽに ひがついた

かんかん おこりむし
おなかのなかから でておいで
のはらでさかだちしておいで

『めのまどあけろ 福音館書店 より』

***

かんかんおこりむしがおなかのなかで暴れそうになったときは、こんなふうに、やさしく語りかけてあげたいな、と思います。
だれのおなかにも住んでいる、かんかんおこりむしくん、かわいがってあげなきゃなと思います。

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2010年12月 6日 (月)

日々のリズム

私はいつも、その日の(夜の12時をまわらない)うちに寝床に入ることに決めている。そうしないと、次の日どうも具合がよくないまま一日を過ごすことになってしまうからだ。

昨日、その約束事を破ってしまった。といっても、厳しく取り締まっているわけではなく破ることなんてしょっちゅうなのだけど・・・でも、昨日はひどすぎた。大幅に時間を超えてしまった。でもどうしても昨日のうちに終わらせておきたい作業があったから、昨日と今日の境界線を踏み越え、いつもより遠くへ行きたくなってしまったのだ。仕方がない。

そして今朝、いつもと同じ時刻に目を覚ました(何時に寝てもめったに寝坊しません!)。
おや? なにかがおかしい。目覚めはわるくない。体もだるくはない。では一体何が・・・。

・・・そうだ。わかった! 食欲がないのだ!
毎朝私は、まず食事をとってから活動をはじめる。そうしないと頭も体も動いてくれないからだ。朝、どうも食べられなくて・・・なんてことはまったくなく、いつもしっかり食べるのが日課となっている。
そんな、いつもあるはずの食欲が今日はどこを探してもない! ない! 見つからない!

それでも何かを口にしようと、流し台のしたから「ひとり倒れたときも大丈夫だよグッズ」(スポーツドリンク、レトルトのおかゆ、栄養ビスケットなどが入れてある)の透明ケースを引っ張り出し、そこからエネルギー補給ゼリードリンクをひとつ取り出した。母によれば、倒れそうなほどつらいとき、これを2本飲むと抜群に効果が出るとのこと。1本じゃなくて2本だよ! 長年夜勤あり超ハードな仕事をしている母が言うのだから間違いない。でも、今日は1本で精いっぱいなの、ごめんなさいお母さん・・・とつぶやきながらそれを胃に流し込んでいった。

そして職場での昼休み。朝よりもなんだか食欲がわいてきた気がした。弁当箱をあける。今日は焼きそばだ。

焼きそば!!・・・今日に限って、なぜこんなにも胃にやさしくないお弁当にしてしまったのだろう。豚肉、キャベツ、人参そしてソバ、と調子よく炒めていた昨日の私を恨めしく思った。私はお弁当を前の晩に作る。私に先見の明があれば・・・悔しい思いで焼きそばを口に運ぶ。

朝、調子がよくないと一日中それを引きずってしまいがちだ。
月曜日にずっこけると、金曜日までその痛みが続いてしまうこともある。

だからなんとか今日でこの不調を断ち切っておかなければ。

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  おれも眠ろう  草野心平

るるり。
   りりり。
るるり。
   りりり。
るるり。
   りりり。
るるり。
るるり。
   りりり。
るるり。
るるり。
るるり。
   りりり。

『定本 蛙 草野心平全集(筑摩書房)より』

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私も眠ろう・・・

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2010年12月 3日 (金)

どしゃ降りのあとで

今朝。職場の最寄り駅で電車を降りたらどしゃ降りの雨。改札を出たところで、たくさんのひとたちが立ち止まり雨がおさまるのを待っている。私もそのひとたちに加わった。

数分で小降りになったので、傘をさし道に出た。しかし、激しい雨によってつくられたたくさんの水たまりが私の行く手を阻む。どうにか安全な陸地を選び、慎重に歩いていく。

ところが。通りを渡ろうとしたとき、恐ろしい光景が目に入った。通りの向こう側で、黄土色の泥水が川のように流れ、その終点がまるで池のような水たまりになっている。その中を、足首のうえまでずぶずぶと浸かりながら通勤するひとたちが足を速めている(が、かなり苦戦しており、なかなか進まない様子)。

さて、どうしよう。その道は、いままさにこれから私が行こうとする道である。

結局そこに足を踏み入れる勇気もなく、まわり道をすることに決めた。今日は早めに家を出てきたから、時間に余裕もある。いつもとは違うルートはまた新鮮で、銀杏並木を見上げてうっとりしていたら、深い水たまりを思い切り右足で蹴とばしてしまった。(さっきまで慎重に水たまりをよけていた努力が水の泡・・・。右足、見事にびしょぬれに!)

そんな大変な朝だったのだがその雨も午前中に上がり、昼前にはもう、それまでのどしゃ降りが嘘だったかのような青空が広がっていた。

どしゃ降りを快晴に変える空の力って本当にすごい。雨を降らせていた重たい雲を一掃し、あっという間に太陽をきらきらと輝かせることができるなんて。

私はといえば、どしゃ降りのような苦しい心を、あたたかい太陽のような穏やかな心に切り替えるのにはたくさんの時間がかかってしまうのに・・・。
ときには、大雨洪水警報が出るくらいのどしゃ降りになり、そのまま長い長い梅雨に入ってしまうことだってある。自分の数年前と比べて、それを注意報で済ますことができたり、梅雨明けを早めることができたりするようになってきてはいるのだけど。

できれば、晴れているほうがいい。いつも明るい日なたのなかにいたい。

でも、それでも――、やはりときには雨の日も必要だと思うのだ。

毎日毎日晴れの日ばかりだったとしたら、いつか心はカサカサに乾いてしまうような気がする。そんなとき、たとえば友人や家族や周りのひとにどしゃ降りの雨が降ったとしても――自分のカサカサに乾ききった心では、それを吸収することなんてできっこない。

雨、くもり、雪、かみなり、ひょう・・・、わが身にふりかかるさまざまな悪天候を乗り越えてきたからこそ、周りのひとの悪天候も、スポンジのような心で受けとめることができるようになるのかもしれない、と思う。
だから、どしゃ降りだって必要だ。その只中にいるときは相当大変なのだけど、でもやっぱり、そんな苦しみも自分にとって大切なもの、大切にしていきたいものだと思うのだ。

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冬があり夏があり

晴れた日と雨の日があって

ひとつの花が咲くように

悲しみも苦しみもあって

私が私になってゆく

  星野富弘 『花よりも小さく』より

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あるかたが、私が詩を好きなことを知って教えてくださいました。
彼女の好きな詩のひとつ、だそうです。
私にとっても、大切に大切に心にしまっておきたい詩になりました。

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2010年12月 1日 (水)

また12月を迎えて

12月だって? 本当に本当に?

毎年毎年、驚いてしまう。また12月が平然な顔をしてやってきたことに。
どうしても、どうしても、驚いてしまうのだ。

めまぐるしく行き過ぎる日々の中でも時間の経つはやさにはっとさせられることはあるけれど、最後の1枚になったカレンダーで残りの日の少なさを確かめたときや、誕生日を迎えてまた1年がめぐったことを知ったとき、私の驚きは1年のなかでも最大レベルとなる。

そしてそのうちそわそわしはじめ、気持ちが一気に走り出す。
街を歩けば、周りのひとたちの歩くスピードが、いつもよりものすごく速く感じてしまう (実際はそれほどでもないのかもしれないけれど)。

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  十二月のうた   茨木のり子

熊はもう眠りました
栗鼠もうつらうつら
土も樹木も
大きな休息に入りました

ふっと
思い出したように
声のない 子守唄
それは粉雪 ぼたん雪

師も走る
などと言って
人間だけが息つくひまなく
動きまわり

忙しさとひきかえに
大切なものを
ぽとぽとと 落してゆきます

『茨木のり子詩集 落ちこぼれ(理論社)より』

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動物たちのように、私たちも眠りにつくべきなのだと思う。12月という1年の最後にこそ、ゆっくりと眠るなかで大切なものをたしかめ、それをぎゅっと握りしめて新しい年に持っていくべきだと思うのに・・・。

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