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2011年2月

2011年2月26日 (土)

春を感じる 氷がとけだす *足もとの小さな花と愛の言葉*

市・県民税の督促状が届いた。またやってしまった。年に4回の支払い締切日を、どうしても忘れてしまう。納付用紙が締切直前に郵送されてくるなら忘れないのに(言いわけ)!

支払い期限を過ぎてしまうと、もうコンビニでは納付できない。平日は仕事のため市役所に行けない。というわけで、土曜日も開館している市の行政サービスセンターへ行く羽目に。でもいいや、今日はとてもいい天気。徒歩で片道約50分かかる道のりだって苦にならない。

ほらほら、梅が咲いているよ。あっ、沈丁花のつぼみがふくらんで、ところどころ花が開いてる! もうすぐ、春の空気に混じってほのかに香り始めるだろう。それに、アスファルトのわきの土の狭いところから、オオイヌノフグリ、青いつぶつぶが光っていた。

無事に支払いを終え、本屋に立ち寄る。岡本太郎さんの本が目にとまった。そう、今日は彼の誕生日(今朝たまたまテレビで知った)。

『愛する言葉』(イーストプレス/ 岡本太郎・岡本敏子)という本を手にとり、パラパラとめくってみる。途端に、私のなかに強い衝撃が走った。なんという強さと優しさ。心に体当たりしてくる言葉たち。岡本太郎さんと、その恋人であり秘書であり養女である人生のパートナー岡本敏子さんおふたりの、愛の言葉。

高校の美術の教科書で見た独創的な彼の絵。でも私はそのとき岡本太郎さんについて知ろうとしなかった。そしてはずかしいことに現在も彼のことをほとんど知らない。まもなく都内で展覧会が開催されるから、あちこちで宣伝を見かけて、今年で生誕100年なんだなぁ・・・と、その程度。

けれど今日、その言葉たちにふれてあまりにも衝撃を受け、彼のことをすごく知りたくなった。パートナーである岡本敏子さんのことも、強烈に知りたくなった。と思ったら、今日からNHKで4回シリーズのドラマが始まっていた。(直前に知り、しっかり見ることができた)

生でぶつかってくるその言葉たちは、心を解き放って楽にさせてくれたり、逆に、胸につきささるような痛みを感じさせるようなものであったりもする。でも決して、圧力のある戒めのような言葉ではない。強いのに、限りなく優しい。美しくないのに、美しい。ほんとうに、彼らははだかで生きている。はだかの心でどこまでも抱き合って、相手を信頼しつくす。でも何もかもがとてもシンプルであるような気がする。

こんなふうに感想めいたことを書いて、その内容をこわしてはいけないからここまでにしておこうと思うけれど、こんなふうに生きたいと、心から思った。

*

心を覆っていた氷が春の日なたにふれた。一気に、あたたかい川の流れをつくりだしはじめた。

ハッピーバースデイ、そしてありがとうございました。岡本太郎さま、岡本敏子さまへ。
ありがとう。小さな姿でその存在をアピールしてくれた春の野花さんたちへ。

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2011年2月23日 (水)

霜のしたに眠る春を待ちながら

朝、いつものように家を出て最寄り駅までの20分弱の道のりを歩いていく。最近、昼間はぽかぽかであたたかい日がつづいているが、それでも朝は冷え込んでいる。きょうも顔に当たる空気はひんやりとつめたい。

いつも通る道の途中に、ひとつ、広い畑がある。きょうはそのいちめんが真っ白。霜だ。考えてみると、こんな霜の風景を見るのはこの冬はじめてのような気がした。いままで霜がおりていなかったということか・・・いやそんなはずはない。きょうよりももっともっと寒い日はたくさんあったはずだ。毎日通る道なのに、そしてとてもひらけたところに広くひろがる畑で目に入らないはずはないのに、私は何を見て歩いていたのだろう。

真っ白な霜に覆いつくされた黒い土(いまは野菜は植わっていないから)。その表面は、朝の光に照らされてキラキラキラキラ光っていた。冷え込んだ冬の厳しさが、ふれれば痛い冬のつらさが、こんなにも美しく輝いているなんて。

その霜のしたには、いまにもとけて流れだしそうなあたたかい春が隠れている。いつかやって来るやさしい春が、冬の厳しさを解き放つ。冬だって、それがわかっているから、どんなにつらくて厳しくとも、こんなにキラキラと輝いていられるのかもしれない。

***

ふるさと   室生犀星

雪あたたかくとけにけり
しとしとしとと融けゆけり
ひとりつつしみふかく
やはらかく
木の芽に息をふきかけり
もえよ
木の芽のうすみどり
もえよ
木の芽のうすみどり

『愛の詩集 室生犀星詩集』 角川文庫 より

***

冬は、こんなにもやさしく解き放たれていくのだ。やわらかな春が、しずかにしずかに土の中から、木の枝から、顔を出す。

たとえいちめんが霜に覆い尽くされていようとも、深い雪に埋もれていようとも、体じゅうが吹雪にさらされていようとも、春は、いつか必ず訪れる。流れおちる涙が大きなつららや水たまりをつくり、それがコチコチに凍ったとしても、やがてあたたかな日なたにふれて融けていくはず。

ここ数日なんだか調子がよくなくて(だからきっと、いつもは空を見上げて歩くのにきょうは下を向いて歩いていたから霜を見つけたのかな)、でもきょうも一日乗り切って、朝とおなじ道を歩いていたとき。

『河津桜が咲いていたよ!』

友人からメールが届いた。一足先に春を感じられる、早咲きの桜。一行だけの、たったこれだけの知らせが、凍りついてちょっぴり苦しくなっていた私の心にあたたかな灯をともした。春は、いつか必ずやってくる。心を覆っているコチコチの氷を少しずつ少しずつとかし、そのなかに眠るたくさんの花を目覚めさせ、明るい色に染め上げてくれるはず。

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2011年2月20日 (日)

天才になるために必要なこと ~特別展 ダ・ヴィンチ~

昨日、日比谷公園で開催されていた「特別展 ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密」へ行ってきた。夕方18:00だったが、明日が最終日とあって入口には長い長い行列。この展覧会、私が翻訳学校でお世話になっている先生が翻訳をご担当されたということで、ずっと行きたいと思っていたのだ。

「モナ・リザ」や「最後の晩餐」で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。会場内にはそれらの絵画やその謎を解き明かすための展示に工夫がこらしてあり、とても楽しめるものであった。

しかし何よりも私を驚かせたのは、さまざまなジャンルにわたるダ・ヴィンチの発明品たちと、それを生み出した彼の頭の中(を明らかにしてくれる彼のスケッチ)。

空を飛びたい――その思いから、鳥をとことん研究して羽ばたく仕組みを解き明かし、それを具体的な機械としてデザインしていく。手のひらサイズの小さなノートに緻密に描きこまれたそのスケッチと文字を見ていると、尋常ではないダ・ヴィンチの集中力やのめり込み具合がひしひしと伝わって来る。またダ・ヴィンチは、他人には内容がわからないように独自の逆さ文字を使用していたのだというのだから、本当に大切に大切に自分のなかだけであたためていきたいと思っていたのであろう。

空を飛ぶための機械をはじめ、自動演奏式太鼓や移動式ピアノのようなユーモアあふれる楽器、時計、潜水服や戦車・・・などなど生活に必要なものから軍事関係のものまで、ダ・ヴィンチの幅広い発想力には驚くばかりであった。

*

会場を出た友人と私は、歩きながら、天才ダ・ヴィンチについて語り合った。そこで出てきたひとつの結論。

天才といわれる人がもっている一番のもの――それは「執着」である。

空を飛びたい、そう思ったらとにかく鳥をとことんまで追究する。鳥と同じこの羽さえあれば、人間だって必ず空を飛べる。そう固く信じて、どこまでもどこまでも執着したダ・ヴィンチ。

私だって、幼いころから大人になった今でもずっと、空を飛びたいという思いを持ち続けている。風の強い日に傘をさしながらすこしだけ体の浮く感じを味わい、「もしかしたら飛べるかも」と思ってわくわくしたり、実際にひとり長野の山へ出かけて行ってパラグライダーを体験してみたりしたこともある。でも、ダ・ヴィンチのようにとことんまで追究したことはない。

きっと、ここの違いなのだ。私には、「執着」が足りないのだ。

私はいま、翻訳の勉強をしている。翻訳の天才になるためには「執着」が必要なのだ。どこまでもどこまでも追究するためには、膨大な量をこなすこと、そしてそのための膨大な時間が必要なのだ。

以前、翻訳者の方がこんなお話をしてくださった。量をこなすことで見えてくるものがある、ということ。短期間に大量の翻訳をこなさなければならない時期があり、毎日追われるように仕事をしていた。それは非日常とも思われるほどの状況であったが、でも、それでも翻訳から目をそむけず必死で取り組み続けていたら――それを乗り越えたとき、これまでとは違う境地に達したのだという。

天才ダ・ヴィンチの「執着」と、この翻訳者さんの話はつながっている。そうか、そういうことだったのだ。私はおそらくまだ、この翻訳者さんの1%にも及ばないくらいしか翻訳をしていないし、気合いもそれくらいしかない。だからこれから、今の100倍の量と時間と気合いで、訳文を逆さ文字で書けるくらいの意気込みで翻訳に取り組んでいこう。

このダ・ヴィンチ展で、ものすごく大きなものを得ることができた。

そもそも、英語と日本語をつなぐ先生の翻訳がなければ、このダ・ヴィンチ展はまったく成り立たなかったのである。先生、とっても楽しめました! ありがとうございました。

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2011年2月16日 (水)

あいしてるって・・・

月曜日はバレンタインデーだった。朝、職場に行ってみると、なんと私の机の上に手のひらサイズのハートピーナッツチョコが置いてある。

キャー! ドキドキ。まさか、この私にひそかに想いをよせているひとがいたなんて。

・・・なーんてはずもなく、職場仲間の女子がプレゼントしてくれたのでした。かわいくラッピングした手作りの焼き菓子をくれた子も! 昔は本命チョコと義理チョコぐらいしか聞かなかったけれど、最近は、友チョコ、逆チョコ、感謝チョコ、いろいろあるみたい。

どれもこれも、ありがとうっていう気持ちや愛する気持ちをチョコと一緒に相手に渡しているのだね。

愛する気持ちって、どんな気持ちなのでしょう。なんだか唐突だけど、今日は愛について語ってみたいと思います。
・・・なんてこと、私にできるはずないよ! そんなの、これっぽっちもわかっちゃいない。この私が、「愛」なんて言葉を口にすること、それだけでウソっぽい。わかることなんてできそうにも思えない(でもどこまでも追い求めはする)。一生かけてもきっと、「愛とはこういうものだ」なんて言えないのだ。

***

 あいしてる   谷川俊太郎

あいしてるって どういうかんじ?
ならんですわって うっとりみつめ
あくびもくしゃみも すてきにみえて
ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
みせびらかして やりたいけれど
だれにもさわって ほしくなくって
どこかへしまって おきたいかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
いちばんだいじな ぷらもをあげて
つぎにだいじな きってもあげて
おまけにまんがも つけたいかんじ

『みえる詩 あそぶ詩 きこえる詩』はせみつこ 編 飯野和好 絵 冨山房 より

***

うんうん、こういう、どういうかんじ? ってのなら、よくわかる。
そう、こういう気持ちは、私だけが知っている心の奥の一番ひみつの場所に、大事に大事にしまっておきたいものなのだ。なんだか、もったいない気がして。

++

さてさて、あいしてるってどういうかんじ? 

・・・私の場合は、こういうかんじです。

「足元に咲いた小さな春を 一緒にしゃがんで愛でたいかんじ」

「いちばん大事な言葉はしまって つないだその手でつたえるかんじ」

「押し花みたいに本にはさんで ときどきとり出しながめるかんじ」

このへんでやめておこう。なかなかはずかしいのだ。あいしてるって、心の一番やわらかいところに生まれる感情だから、ひとそれぞれ違っていてとっても特殊なものだと思う。みんなはどんなかんじなのかなぁ・・・。

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2011年2月13日 (日)

あの子が母に(後編)

N美の出産が近づいたある日。Y子、I 山、私の3人は、N美に内緒で3人だけの会合を開いた。集合場所は、日本橋にある水天宮。安産祈願で有名なのだ。N美の安産をみんなで祈り、お守りを購入、出産をひかえた彼女に手渡した。

そしてN美は、2010年8月、ひとりの女の子を無事出産する。その名は「あや」。

*

年が明け、1月の終わりのN美の家での会合。I 山は残念ながら都合が合わず欠席だ。

5か月のあやちゃんは、なんだかもう堂々としていて、見つめられるこちらがそわそわしてしまうほど。しっかりとした強いまなざしがとても印象的だ。もうひとつのインパクトが、ほっぺ。赤ちゃんのほっぺって、ぷるぷるしていて何度でもさわりたくなってしまうものだけれど、あやちゃんのはまた格別。ものすごく、弾力があるのだ。やわらかなおもちと言うだけでは足りない、みずみずしいこんにゃく、とでも言えばいいのだろうか。とにかく、押したときのはねっ返りがとても強い。

Y子と私は、あやちゃんの強いまなざしに少々とまどいながらも、ほっぺに触れ、手に触れ、髪にふれ、抱っこさせてもらい、思い切りあやちゃんとふれ合った。

N美から、出産とそれまでの日々のこと、その後の育児などについてのお話を聞かせてもらう。出産に至るまで、おなかの中のあやちゃんやN美自身の経過にもいろんなことが起こり、心配になったり心が不安定になったりしたこともあったと言う。出産時も、あやちゃん、スルリと出てきたわけではなく、促進剤を使用したうえで帝王切開に至るという大変な難産だったそうだ。「この子になにかあったら」――無事に出てきてくれるまで、大きな決断を迫られることもあったり、周りからかけられる言葉に心が大きく揺れ動いてどうしていいか苦しんだり。

N美は、そうして、母となったのだ。もう、ただのN美ではない。翻訳学校の予習をちょっとおさぼりしてしまうN美ではない。あやちゃんを抱きながら母親にしかかけられない言葉をつぶやくN美が、とてもかっこよく見えた。素敵だよ、N美・・・。

「N美が母になるなんて、ほーんっと、大丈夫かなぁ」・・・N美が妊娠したことを知って一番心配していたのはほかでもない、I 山。今日は来られなかったけど、I 山、N美なら大丈夫だよ。私たちの想像をはるかに超えるほど(言いすぎね)、しっかりママやってる。

そんなふうに感動していたら、あやちゃんがちょっとぐずりはじめた。N美、おしめのぬれ具合をチェック。「あ、出たね~」。当然、そこでオムツ替えがはじまるかと思ったそのとき。

「うん、でも、もうちょっと頑張ろっか!」

・・・「えー!! そこまでさわっといて、替えないの!!」「替えようよー!」

Y子と私が訴える。あやちゃんも、替えてもらえないことがわかってその泣き声を大きくする。

「じゃあ~、替えるか。よかったねぇ、あや。ママと二人だと替えてもらえないもんね」

「あやちゃん、もっともっと泣き叫ぶべきよ!」 Y子と私はあやちゃんに吹き込む。

せっかく素敵なママになったN美を見てうっとりしていたというのに・・・、残念だったわね、N美!
でも、これくらいおおらかなママのほうがいいのだと思う。赤ちゃんにとっても、ママ自身にとっても。(子育てしたことないのに、えらそうにごめんなさい)。ママがバタバタせっかちな気持ちでいたら、赤ちゃんだって落ち着かない。ずっとママのおなかの中で過ごしてきた赤ちゃんには、外に出てからも、ママの気持ちをものすごく敏感に感じ取っているように思うから。

うちの母も、私をひとりおうちに置いたままスーパーなどに行ってしまう放任主義っぷり。帰ってくると、私の寝ている向きが180度回転、頭と足が逆向きになっていたことがよくあったと言う。オムツが濡れて、気持ちわるいのだ。それでも泣きもせず、おとなしく母の帰りを待っていた私、赤ちゃんのころから、何て親孝行な娘なんでしょう!(書いててはずかしくなってきた)。

***

 歌   新川和江

はじめての子を持ったとき
女のくちびるから
ひとりでに洩れだす歌は
この世でいちばん優しい歌だ
それは 遠くで
荒れて逆立っている 海のたてがみをも
おだやかに宥めて(なだめて)しまう
星々を うなずかせ
旅びとを 振りかえらせ
風にも忘れられた さびしい谷間の
痩せたリンゴの木の枝にも
あかい 灯をともす

(後略)

『新川和江詩集』 ハルキ文庫

***

ひとりでにささやかれるN美の言葉、なんて優しいんだろうって思ったよ。あのN美が!(←だから、言いすぎだって)

あやちゃん、そしてN美ママのますますのご成長、楽しみにしています!

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2011年2月12日 (土)

雪が降るとなぜか…

雪が降ると、なぜ、だれかにそれを伝えたくなるのだろう。

「うわぁ~、雪だ!」

雪が降っていることを確認した瞬間、「ねえ、見て見て! 雪だよ!」と、自分のものでもないのに、なぜだかだれかに見せびらかしたくなる。

 ♪ 今 君がこの雪に気付いてないなら 誰より早く教えたい 心から思った 
                                  槇原敬之 『北風』より ♪

ね、ほら、そうでしょ?

うちの母も例外ではない。昨日の朝一番に、私にメールをくれたのだ。

『今日は雪。寒いから気をつけて。母』 

母は頻繁にメールをくれるわけではない。電話もない。どうしても必要なときに必要なことだけを報告し合う、という感じだ。遠くにいる娘を思い、「最近どう? 元気にしてる?」などと電話してくることもまったくない。なにしろ母との電話で最も記憶に新しいものといえば、「あんたが前に使ってたファンヒーターの説明書、どこにある?」 という唐突な質問、それだけなのだから。

そんな母がメールをくれたのだ。そんな母をも動かす雪の力ってすごい。

しばらくして、姉からも。 『2月の雪は、粒が大きいな』 
夕方には、『雪降ってるか。こっちはやんだ』 と。

そう遠くに住んでいるわけではない友人とも、「そっちはどう?」と雪の様子をたずね合ってみる。

***

  二月の雪   新川和江

空のおくには
とてもたくさんの
小鳥がかわれています
ガラスみたいに
からだがすきとおっていて
羽だけが白い
つめたぁい小鳥

その羽を
だれがこんなにむしったのでしょう
春の服に
ころもがえさせるため?
それともほそいくちばしで
神さまのだいじな木の実をつついたのを
こらしめようとして?

あとからあとから 落ちてくるのを
しぃんとした気持で わたしは見ています
あとからあとから 落ちてゆくのを
かなしげに見つめている目が 空にもあります

『新川和江 詩集』 ハルキ文庫

***

雪降ったね! の報告を済ませ、今度はひたすら、降り続いている雪を眺めてみる。

ひらひらひらひら舞い落ちているのは、あれは小鳥の羽なのだ。どこもかしこも真っ白で穢れのない一枚一枚が地上を白く染め、ふわふわのじゅうたんをこしらえていく。

思わず「雪だ!」と声に出してしまったような嬉しい気持ちが、徐々に変化していく。小鳥の体から剥がれおちた羽が音を立てることなく降り積もっていくのを見ていると、自分の心の奥にある何かがむしり取られていくような気さえしてきてもの悲しく、降り積もるその雪と同じように、私の目からもあとからあとから涙がこぼれ落ちていく(どこまでが本当でしょうか)。

小鳥は春の服にころもがえをしたはず!  桜色かな。それともおひさまのような明るいオレンジかしら。

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2011年2月10日 (木)

あの子が母に(前編)

先月末、夏に赤ちゃんを産み母となった友人、N美の家に遊びに行った。「あや(仮名)」と名付けられたその子に初のご対面。現在5カ月。わくわく、ドキドキ。

4年前、私は全日制の翻訳学校に通っていた。1年間学習をともにした仲間のなかで特に私と親しくしてくれていたのは、私と同い年のN美、Y子、そして私たちよりすこし年上で姉御肌のリーダー、I 山の3人である。そこに私を加え、グループメンバーは計4名。1年間の講座修了後も定期的に集まり、互いの近況を報告し合っている。

会合は2~3カ月に1度くらいの頻度で開かれる。だいたい午後3時ごろ集合して少し街を歩き、食事をして解散という流れだ。店の予約を含め、その日の計画を立てる当番が順にまわってくる。

N美はなかなか奇抜なアイデアを出すヤツで、「寄生虫博物館(目黒にあります、オススメ!)企画」や、「東京大神宮(恋愛祈願で有名です)初詣企画」の主催者でもある。この初詣会合のおかげなのか、それまで恋愛に関してなんの音沙汰もなかったN美にたちまち恋人ができ、順調に愛を育んで結婚、そして今回の出産に至った、というわけである。

その日は、「銀座のアンテナショップ(全国各地の名産品を取り扱うショップ)めぐり&おいしい生パスタを食べよう」という企画。主催者はN美。いくつかのアンテナショップをめぐり日も落ちてきた銀座の街の夕暮れ、人が行き交いそれほど広くもない歩道を歩いていたときのこと――。

「あのね、私、結婚することになったんだ」

――突然だった。突然すぎて、すぐには理解することができない。しかし、たしかにN美はそう言ったのだ。

「えっ・・・」 

Y子、I 山、私の3人は、一瞬言葉を失う。だが次の瞬間、

「ちょっとN美! なんでそんな重要なことをここで言うの! みんなだって言いたいことあるけど、ちゃんとご飯んときまで我慢してんだからね!」

I 山からN美への一喝が飛ぶ。危ない、危ない。長年空手で鍛えているI 山、いよいよ技をかけてN美を倒してしまうのかと思って緊張してしまった。だがさすがのI 山もそこまではしない。

そう、そうなのだ。私たちが驚いたのは、結婚するよという報告そのものよりも、このざわめく都会のど真ん中で、何の前ぶれもそして何のためらいもなく重大発表をしたN美に驚いたのだ。

「そうだそうだ!」 Y子と私にも責め立てられたN美、しょんぼり。せっかくのいい報告なのにね。

でもそのあと、N美オススメのおいしい生パスタを食べながら、話をたくさん聞かせてもらったよ。

(N美の家に遊びに行ったことを書こうとしたのですが、そこまでの経緯が長くなってしまいました・・・。後編へつづく) 

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2011年2月 6日 (日)

点と点を結ぶように~「翻訳そぞろ歩き 上野~東京(もしかして有楽町)編」

土曜日に、「翻訳そぞろ歩き」というものに参加させてもらった。これは、仕事、学習など何らかの形で翻訳にかかわっているひとたちが集まり、ただただおしゃべりしながら一緒に街を歩くという企画である。

翻訳者になることを夢見て約4年前から学習を続けている私。一昨年の秋、実務&出版翻訳者のイワシさんによってはじめられた「翻訳そぞろ歩き」に私はこれまで数回参加させていただいたのだが、そのたびに「また参加したい!」と思わせてくれる、それはそれは素敵な企画なのだ。関連記事→前回(昨年11月)開催 翻訳そぞろ歩き横浜編

今回は、「歩きませ山手線 マハロいとうさんとゆく上野~東京(もしかして有楽町)編」。(←主催者イワシさんの楽しい開催レポートです!)山手線一周へのチャレンジ第一弾、である。参加者16名、書籍編集者であるマハロいとうさんの先導により、午後4時に上野駅発、ゆるゆると歩き始めた。

上野からアメ横をぬけ、御徒町、秋葉原・・・と順々に山手線の駅をつないでいく。
途中、いとうさんのおすすめスポットに立ち寄り、とても楽しい時間を過ごすことができた。

御徒町付近では、おいしいどら焼きで有名な「うさぎや」さんへ。和菓子に目がない私は、迷うことなく購入、でもひとつだけ。10個買うと10個食べてしまうからね。やわらかく炊かれたほどよい甘さのつぶあんが、しっとりとした2まいの皮で大事に包みこまれていて、とてもおいしかったです。

私にとっての今回の衝撃スポットは、なんといっても秋葉原である。絶対に自ら好んで足を運ばないであろうエリアであると実感しながらも、でもこういう世界もあるのだと、並べられている商品やらお店の看板やらに目は釘付けだ。
「秋葉原ガチャポン会館」に一歩足を踏み入れればそこはガチャポンのパラダイス。さっきまで熱い翻訳話を交わしていた方々も、棚にぎっしりと並べられたフィギュアたちにうっとりである。

*

「こうやって、点と点を結ぶように歩くこと、普段しないから面白いですね」 ゴールの東京駅が目前に迫った信号待ちの交差点で、そのとき私の隣にいた翻訳者さんがぽつりとつぶやいた。 ――ああ、そうか! そういうことなのだ。

たとえば「うさぎやへどら焼きを買いに行こう」とか、「よし、今日は秋葉原ガチャポン会館へ行くぞ!」と思ったら、最寄り駅(御徒町駅や秋葉原駅)で電車を降りてそこへ直行するであろう。そうして目的を済ませ、心は満足、それで終わり。これが、点だけを楽しむやりかたである。

でも、今回のような街歩きはそれとは違う。点ではなく、線を楽しむやりかただ。

街歩きの面白みとは、点と点を結ぶ線を自由に描いていけるところ、そして、その線の上に横たわる街を存分に味わえるところにあるのではないだろうか。その街の日常を自由に感じ取ったり、風景を自由に切り取ったりすることを街歩きは可能にしてくれる。点と点のあいだにある街の生きざまを肌で感じ取ることができる。
活気あるアメ横のざわめき。電気街とさまざまなカルチャーの個性が生きる秋葉原。つい立ち寄りたくなる飲み屋さんが立ち並ぶ神田周辺。その街の日常が、その街を行き交う人々の日常が見えるような気がしてくる。電車の窓から眺めていただけだった風景のなかに入り込むことができて、嬉しかった。

終点の、いとうさんおすすめ「ごはんCafe」では、とてもおいしい定食&日本酒につられて、翻訳話にそれまた大きな花が咲きました。翻訳への取り組み方やそのなかで見えてきたもののお話や、学習する中で徐々に変化する翻訳への思い、などなど、情熱あふれるみなさまの熱いトークに、私はたくさんの力をいただきました。

毎回ながら、本当に、たくさんの方々と出会ってお話できることがとても嬉しい。

そぞろ歩き隊の先頭に立ち、街の素敵な表情をたくさん教えてくださったマハロいとうさん、毎回この会を企画し、参加者が楽しめるようにと細やかな心配りをしてくださるイワシさん、そして、一緒に歩いて楽しいトークをしてくださったみなさま、本当にありがとうございました!

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2011年2月 3日 (木)

愛しきお豆

兄さん、兄さん。

兄さん、兄さん。

2、3、2、3だ。今日は、2、3、2、3! 23年2月3日。仕事中、「兄さん、兄さん」とつぶやきながら、ちょっとした発見をひそかに楽しんでいた私。

・・・違う、違う! 兄さんの日ではなくて、今日は節分でしょう!

今朝職場で、おうちが神社だという方から、まめをいただいた。「節分祭」と書かれた袋に入ったそのまめは祈祷済みだそう。とてもありがたい。福がいっぱいやって来そうだ。
ちゃんと豆まきをしてから、いただこう。昨日のニュースで、「ぞうの豆まき」を見た。鼻でまめをつかみ、シャワーみたいに上手にまめをとばすぞうさん。けれど、3歳の子どものぞうは、鼻につかんだまめをまかずに食べてしまったそう。そうだよね、食べたいよね!

私も、帰宅するまでに食べてしまわないようにちゃんと気をつけていたおかげで、無事持ち帰ることができた。ようし、豆まきだ! ものすご~く地味にではあるが、鬼は外と福は内、どちらもパラパラっとまいた。そのあと、一粒一粒、大切にいただく。福がやってきますように。

ところで、まめって、とてもいい。まめという言葉も、姿かたちも。そのままでも。炒っても煮てもすりつぶしても加工食品になっても、まめはとてもいい。
まめまめまめ、とつぶやけば、気持ちがしゃんとなって、細やかな気配りができるような気がしてくる。
やわらかく煮たまめを一粒一粒口にいれれば、気持ちがほっこりしてくる。
箸でぐるぐるとかき回し、好きなだけねばらせることができる納豆。ストレス解消になるうえ、誰よりも相性のいいごはんのお友達になってくれる。

豆のお風呂なんてあったら素敵だろうなぁ。じゃらじゃらの豆の感覚を全身で味わえるのに!

***

「まめ」 まどみちお

豆に「まめ」という
ぴったりの名まえを
だれが つけたのだろう

さっぱりしている
ひきしまっている
りっぱというほかはない
つけたのは 人間ではないのでは?
と 思われてくるほどだ

ほんとに それはもう このへんの
小鳥やけものや 木や草や
雨や風や きせつまでが
人間といっしょになって
ながいながい時間をかけて
磨き上げてきた名まえにちがいない
ヤブマメ
ツルマメ
ナタマメ
タヌキマメ
ああ いい!

シロマメ
クロマメ
アカマメ
ウズラマメ
ますます いい!

『まどみちお詩集』ハルキ文庫 より

***

まめのように。

あるときはきりりとひきしまり、あるときはほっこりとやわらかく、またあるときはどこまでも粘り強く――そんなふうに、なれたらなぁ。

明日は立春! 春が、見えてきましたよ!

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