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2011年5月

2011年5月31日 (火)

気持ちの居場所

心が不安定な状態というのは、自分の気持ちがきちんとおさまる場所がないってことなのかなぁと思う。

宙に浮いたまま、どこへも行けずにずっとさまよい続けているような――帰る場所が、わからない。見つからないのだ。

でも、いまはわからなくても、いつか、そのうちに、必ずわかる。いそがなくたっていいのだ。いまは、そういう気持ちも大事にして、ゆっくりあるいていけばいい。

***

 南の絵本   岸田衿子

いそがなくたっていいんだよ
オリイブ畑の 一ぽん一ぽんの
オリイブの木が そう云っている
汽車に乗りおくれたら
ジプシイの横穴に 眠ってもいい
兎にも 馬にもなれなかったので
ろばは村に残って 荷物をはこんでいる

ゆっくり歩いて行けば
明日には間に合わなくても
来世の村に辿りつくだろう
葉書を出し忘れたら 歩いて届けてもいい
走っても 走っても オリイブ畑は
つきないのだから
いそがなくてもいいんだよ
種をまく人のあるく速度で
あるいていけばいい

『いそがなくてもいいんだよ』 岸田衿子 童話屋 より

***

さまよっているあいだは、そういう不安定な心が、涙や苛立ちや焦りなんかに姿を変えることもあるかもしれない。でも、きっとそれも必要な道のり。そうしていつか、「よく来たね。きみ、ここにいていいよ」と言ってくれるような、気持ちがすっぽりおさまるところ、安心できるところが見つかるはず。

「いそがなくたっていいんだよ」 オリイブ畑の木が、見守っていてくれるのだ。そして、「オリイブ畑は、つきない」のだ。

重たい荷物は背負わずに。ただ自分のはだかの気持ちだけで、ゆっくり、ゆっくり、あるいてみよう。

きょうの大発見。階段をのぼるとき、スキップ、とまではいかないけれど、つま先で弾むようにのぼると、気持ちがとっても弾みます♪ 楽しくってしかたなくなります。・・・ただそれだけです。職場で、駅の階段で、アパートの階段でためしてみましたが、あまりの効果にびっくりです。

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2011年5月29日 (日)

ホタルブクロ

雨がまだ小降りだった午前中、道端で見つけた花。

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ホタルブクロ(蛍袋)だ。道路と、家の塀のすきまからのびる細い茎とハート型の葉っぱ。うつむいて咲く可憐なお花。ぽつぽつと降る雨をすべらせる小さな傘みたいにも見える。なんてかわいらしいんだろう!

名前の由来は、昔、子どもたちがこの花の中に蛍を入れて遊んだからとか、この花をぶらさがる提灯の形に見立てて、その古語である「火垂(ほたる)」をあてたからとか、言われているようだ。

そういえば、まさに、そろそろホタルの季節。岐阜にいたころは、ホタルを見に出かけたものだなぁ(懐かしさがこみあげる・・・)。この辺りでも、どこかで見ることができるといいな。

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2011年5月28日 (土)

またあたらしく

あたらしい葉っぱが出た!

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この子たちの名前は、左から、メメ、ママ、モモちゃん。

昨日までは、一番早くに生まれたママが一番大きかったのに、今朝見たら、葉の大きさも背の高さも、メメがママを追い越していました。

台風が来るので、今日は部屋の中で過ごそうね。梅雨入りしたので、かわいそうに、しばらくお日さまにも当たれなくなっちゃうのかな・・・。

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2011年5月27日 (金)

指先の小さなトゲ

きのうの昼間、右手親指の指先に、小さなトゲが刺さっていることに気がついた。

なんだか指先がチカチカするなぁ・・・と思ってそのあたりをよく見てみたら、0.01ミリくらいのとてもとても小さな黒い点があることを発見した。押さえてみる。痛っ! 間違いない。確実に、何かが刺さっている。

左手の親指とひとさし指を使って、そのトゲを押し出すように両側からぎゅっとやってみる。ほんの少し皮ふから顔を出してくれるものの、つまみだせるほどではない。

仕事の合間に、帰りの電車で、夜寝る前に・・・何度も挑戦したがうまくいかなかった。

今日も朝から、何度もチャレンジ。でもやっぱりダメだ。

触れなければ痛みを感じないから放っておいてもよさそうなものだけど、一度気になったものはいつまでも気になる。また、トゲを放置していたらあとで悪化して大変なことになったという友人の話も聞いたことがあったため、心配もあった。

よい方法はないものか。周りの人に聞いてみると、「5円玉か50円玉をギューッと押しつけると、ちょっと痛いけどとれます!」というアドバイスを得られた。しかし、私の場合は親指のてっぺんの端っこに刺さっているので、その方法は使えない。

思い切って、看護師さんのところへ行くことにした。幸い、健康診断の施設に勤めているので、いつでも看護師さんと医師に会える。

本当は看護師さんにトゲを抜いてもらいたかった。でも、よく見なければわからないくらいのちっぽけなトゲごときに大騒ぎしているような気がして恥ずかしいから、「とってください」なんて言いにくい(小心者)。まずは、「とげ抜きを貸していただけませんか」と言ってみる。しかし、そういうものはないらしい。代わりにと言って、棚から一番細い注射針を出して私に手渡してくれた。

あぁ、自分で針を刺すなんて怖いよ! 躊躇してしまう。
・・・ちょうどその時、それまで席をはずしていたリーダーの看護師さんが戻って来た。彼女は事態をすばやく把握すると、「それなら、私にまかせな!」というような感じで自分の前に私を座らせた。

いつもはとても厳しい方なのだが、処置をしてくれるときの彼女はやさしかった。「痛かったら言ってね」と、私の緊張をほぐすかのように語りかけながら、痛みがほとんどないように皮の表面でだけ、針を動かしていく。さすがプロのナースさま。体調を崩して病院に行き、そこの看護師さんにやさしくされて泣きそうになることがよくあるけれど、ちょっぴりそんな気分になった。

1分ほどして、彼女の手がふっと私の指を離れた。「さあ、終わったよ」とでも言うかのように、彼女が私の親指と私の目を交互に見た。
「とれたんですね! ありがとうございます」思わず叫ぶ私には目もくれず、「消毒とバンドエイド」 と、彼女は近くにいた別の看護師さんに淡々と指示を出した。

*

私を悩ませていた小さな小さなトゲ。本当に小さなものなのに、それがうまく抜きとれたというだけで、チカチカした嫌な痛みもすっかり解消されて、とてもすっきりした。こんなにすっきりするとは驚きだ。

ほんの小さなトゲであっても、痛いものは痛い。知らないふりをしようと思えば出来てしまうのかもしれないけれど、やはり気になってしまうもの。小さくとも、心の大部分を奪ってしまいかねないもの。

自分でとろうと頑張ってみてもとれなかったら、何度やってもうまくいかなかったら、思い切って周りの人たちにゆだねてみようとすることも必要なのだ。「さあ、私にまかせなさい!」 そう言ってくれるひとが必ずいる。自分では思いつきもしなかったアイデアを出してくれるひとが必ずいる。

その代わりに自分も、いつか、どんな場面でか、私にまかせて! と言えればいい。言えるようになりたい。その人に突き刺さったトゲを無理に引き抜こうとするのではなく、その人が抜いてほしいというようなそぶりを見せたとき、力強く、やさしく、ためらわず、そう言えたらいいなと思う。そういう人になりたい。

 

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2011年5月25日 (水)

私のかわいい子どもたちへ

なにかひとつの物事について考えすぎてしまうときは、あまり調子がよくないのだと思う。考えるほどに思考が自分勝手になり、それに気づいてまたまた自己嫌悪に・・・。

いけない、いけない! リセットだ。こんなとき、私の心に効くものって、やっぱり詩なのです。

***

  ふしぎ   金子みすゞ

わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの実たべている、
かいこが白くなることが。

わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

(後略)

『わたしと小鳥とすずと』金子みすゞ JULA出版局

***

わたしもふしぎでたまらない。おとといよりもきのう、きのうよりもきょうと、植物たちが背を伸ばし、いつのまにかその表情を変えていることが。

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そうだ、この子たちになまえをつけてやろう。

芽、だから、メメちゃんとかそんな感じがいいなぁ・・・。

ようし、決めたっ!

ほかのふたりより、一足先に生まれた真ん中の子は、「ママ」。
その次にふたばを広げた左の子は、「メメ」。
最後にのんびり出てきた右の子は、「モモちゃん」。

・・・なーんて、おかしな私ですが、出てきてくれたこの子たちが、かわいくてしかたないのです。しかし、なかなかうまく植物を育てられないこの私。いつのまにかこの話をしなくなったら・・・なんてことは考えず、絶対、花になるまでしっかり育ててやらなくては。

==

以前、うずまきクッキーパワーという記事にコメントをくださったかたへ。姉がとても喜んでおりました。感謝しております。ほんのひとことですが、姉からの伝言を預かりましたので、どんぐりの姉(代筆どんぐり)でコメントを入れさせていただきました。またのぞいてみてくださいね。ありがとうございました!

(実家はパソコンをほとんど使わず、ブログを見る機会もあまりないようだったので、うずまきクッキーの記事とコメントを印刷して姉に郵送したのでした)

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2011年5月24日 (火)

うまれたての私へ

今朝の私は、なんだかよくわからないけれど、うまれたての気分だった。

***

 うまれたて    あげはゆりこ

おひさまの あいずで
めをさましました
さなぎの ゆりかごから とびだし
ゆっくり はねを のばしました
(いまだ!)
わたしは かぜのふねに のりました
だいすきな だれかに
であうために
   ・・・・・
あたらしい「きょう」です
あたらしい「わたし」です

『のはらうた Ⅳ』 くどうなおこ 童話屋より

***

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3日前(両端のふたりは、2日前)にうまれた植物の芽たち。今日は朝から雨に打たれていた。この前の写真と様子が変わらないような気もするけど、いやいや全然違うのだな。ずいぶんと、のびのび、ぐーんと腕を広げてる。

この子たちを見ながら私もぐーんとのびをして、新しい空気を吸い込んだ。あたらしい「きょう」だ! あたらしい「わたし」だと!

*

最近なかなか気分が晴れなかったのは、単に、ある物事に落ち込んでいた、というだけのことではなかったのだと、今日、気づいた。
人に、ぶつかり切れていなかったこと。自分の考えていることを、伝え切れていなかったこと。そのせいだ。

人に、自分の思いを伝えるのはほんとうに難しい。単なる連絡事項ならともかく、「気持ち」というものは、いったいどういう言葉にして、どういう手段を使って伝えればいいのか。(・・・まあ実際は、そんなことごちゃごちゃ考えずに、直球で行ってしまう私なのですが)。

相手が自分にとって大切なひとであれば、なおさらだ。それに、大切なひとであればこそ、心の奥底の感情までも伝えたい、と思う。感謝も喜びも、苦しみも怒りも、悔しさも――。
ぶつかろうとすることは、こわいし勇気がいる。もしかしたら、うまくいっていた相手との関係性だって壊れてしまうかもしれない。嫌われてしまうかもしれない。

それでも、伝えたいことがある。心を隠しながら、にこにこ顔をつくり続けるなんて器用なこと、できっこない。伝えたことで関係が悪化しても、それはそれでしかたがない。でももしも、それでも相手が私とつながっていてもいいと言ってくれるのなら、これからもまた、叱られても軽蔑されてもいいから、思いを伝えつづけるだろう。

なんて・・・本当に、どうにもこうにも、相手に迷惑だというのに直球で行ってしまうところ、まだまだ修行が足りないのかもしれません。

というわけで、周りのひとたちにぶちあたりつつ(かなり迷惑)、あたらしい「きょう」を迎え、あたらしい「わたし」に、日々うまれかわっている私なのでした。なんだか本当によくわからないけれど、あしたもやっぱりあたらしい「きょう」、あたらしい「わたし」に出会えるかと思うと、わくわくするのです。

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2011年5月22日 (日)

芽がでた! ワクワク。

芽が出た!

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一週間ほど前にまいたタネたち。

わーい。よく、出てきてくれました。お誕生日、おめでとう。真ん中の子は、5月21日。両端のふたりは、5月22日生まれです。元気に、育ててやらなくちゃ!

タネは、友人のあわからわけてもらったもの。彼女は、バラをはじめ植物を育てることがとても上手で、私にもタネや苗をよくおすそわけしてくれる。チューリップ、フウセンカズラ、朝顔、いちごやミントの苗。彼女のおうちでは見事に花を咲かせ、ぐんぐん成長して年を越すのに、私のほうは、ちっともうまくいかない。

そんな私に、これなら大丈夫でしょ、とくれたのがこの花のタネ。よかった。ひとまず芽が出たよ!

***

  ワクワク   谷川俊太郎

タネまけば芽が出るさ
芽が出れば花が咲く
花が咲きゃ実がなるよ
実がなればタネになる
ワクワク ワクワク

腹がへりゃ飯を食う
飯を食や眠くなる
昼寝すりゃ夢をみる
夢をみりゃ目がさめる
ワクワク ワクワク

腹が立ちゃけんかする
けんかすりゃなぐられる
なぐられりゃけっとばす
けっとばしゃすっとする
ワクワク ワクワク

(後略)

『うつむく青年』 谷川俊太郎 サンリオ より

*** 

うんうん、きっと、花は咲く! ワクワクしながら、育てていこう。

きっと、毎日のいろいろは全部、ワクワクなんだなぁって思う。つぎつぎに起こるそんなワクワク ワクワク を、日々感じていたいなぁ。

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早くも花をつけたアジサイを発見! ワクワク。

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アジサイの近くには、見事なバラが。ワクワク!

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2011年5月17日 (火)

心のお守り

心を送りあう。

たとえ直接会えなくても――顔を合わせなくても、声を聞かなくても、肌をふれあわすことがなくても、心を送りあうことはできる。

私の送った心を、相手が受けとめてくれた。そして、相手の送ってくれた心が、私にしっかりと届いた。もう不安じゃない、大丈夫だって思えた。相手の心は、私の胸のなかにいてくれる。私も、相手のもとに届くように、これからもずっと心を送りつづける。

そのひとがくれた心のお守りを大切に握りしめていれば、きっと大丈夫。会うことが叶わなくても、遠く離れていても、心を送りあうことはできるのだ。

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2011年5月15日 (日)

うずまきクッキーパワー

この土、日は最高のお天気。いつもの散歩道、いまは色鮮やかな花も咲いているし、足取りも弾んだ。でも、家に戻ったら、最近くもり気味だったその気持ちがまたよみがえってきてしまった。
こういう気持ちにとらわれることなく過ごすにはどうしたらよいか。

部屋をすみずみまで掃除して、キッチン台を磨いてみた。切干大根を煮てみた。とれかけのボタンをつけなおした。勉強は、集中できなかった(だめじゃないか!)。植物の種をまいた。頂き物の土つきごぼうをきれいに洗い、包丁の先でひたすら皮をこそげとった(これは、無心になることができてなかなかいい)。どれもこれも、一時的に気を紛らわしてくれたが、でも手をとめるとまたその気持ちがよみがえってくる。なかなかうまくいかない。

と、そんなとき。

「うずまきクッキー作った。 ひといろはうまく模様ができずに失敗だ」

Photo_3

こんな、写真付きのメールが送られてきた。

Photo_2

姉からだった。

うぁー! うずまきだ!!

なんだかこの映像がかわいくて、おかしくて、心の底から笑いがこみあげてきた。このうずまきが、一気に心のもやもやを吸い取ってくれたみたい(単純な私なのです)。

特に私は、うずまきが好きなのだ。うずまきのとりこなのだ。数年前、『うずまき』(伊藤潤二作・小学館)というコミックを読み、うずまきの魅力にとりつかれた。

ということは、どうでもいいことなのだけど、このクッキー、かわいい!

*

姉はお菓子作りが好きで、そしてとても上手だ(身内ながら、ほめてあげたい)。いつかお店を出したい、それが姉の夢だ。ほんとうの話。

メインはシフォンケーキ。すでに開発したオリジナルメニューは、プレーン、オレンジ、コーヒーマーブル、かぼちゃ、よもぎかのこ、抹茶かのこ、カフェモカ、ピンクグレープフルーツ、フルーツミックス、などなど。シフォンだけじゃさみしいから、クッキーやマドレーヌなどの焼き菓子もやりたいといって、いま開発中なのである。名古屋にある行列のできる焼き菓子専門店などに出掛け、人びとが好む焼き菓子を研究しているみたい。

みんなはどんな焼き菓子が食べたいのかな、と姉は言っています。どなたか、何か思いついたら、いつでも私に教えてください。よろしくお願いします。
私は、昔ながらの真ん中がぷっくりふくらんだ小ぶりのマドレーヌ(と言ってわかるかな)が好きだな。

姉のつくるお菓子やパンやベーグルなどは、ほんとうに、ピカイチさ(くどいけど、またまた、身内ながら)! もちろん、お金を出して食べていただけるまでには、もっともっと腕を磨いて、いつでも同じ味が出せるようにならなきゃいけないのですが。姉よ、頑張って!

一目みれば思わずぷぷっと笑いたくなるような、悩みもふきとぶこのクッキー、いつかお店を出した時、絶対ならべてほしいです。

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2011年5月14日 (土)

きょだいな切干大根とどんぐりの器

宮崎県に親戚があるというかたから、野菜をいただいた。

ごぼう、新玉ねぎ、きゅうり、干し椎茸、自家製のお茶、宮崎県名産の日向夏に、それから切干大根など、たくさん。

さっそく今晩、切干大根の煮ものをつくってみた。

これがまた、スーパーで売っているような千切り状のものではなく、きょだいな、スペシャル切干大根(はじめて見ました)!

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こんなのを、

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じわじわ、水で戻します。

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で、出来上がり!
厚揚げと、それから、一緒にいただいたきょだいな干し椎茸を入れました。

きょだいな切干大根は、歯ごたえがよくとても甘くてやさしい味でした。お日さまをたっぷり浴びて、おいしさを蓄えたのでしょう。煮もの(簡単なもの)は、あまり失敗しないから、料理があまり得意ではない私も大丈夫なのでした。

そして、盛りつけてある器は、さりげなくどんぐりです。

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これは、特別支援学校の生徒さんが製作されたもの。
ある日、近くのスーパーの催事場の一角に、生徒さんたちと先生方がいらっしゃって、販売していました。一枚、一枚、手作りで、この世にひとつしかない器です。お皿のカーブも、手描きの模様も、一枚、一枚、ちがいます。どれもこれも、本当に心をこめて作られたものだということが伝わってくる器たち。
このほかにも、焼き魚用の四角いお皿と、パスタがたっぷりのせられそうな大ぶりの器も購入しました。ひとつひとつのお皿について、どんなふうに作ったか、生徒さん達が嬉しそうに説明してくれました。そんなやりとりがあると、さらに器への愛情が深まり、使う時にもとても嬉しくなるのです。

はじめて写真を取り入れてみて、ちょっぴりドキドキ。うまくいくといいな。

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2011年5月10日 (火)

地面のことり

上を向こう。無理にでも、上を向こう――そう思っても、どうしてもうまくいかないことがある。そんなときは逆らわずに下を向く。じっと地面を見つめてみる。

最近、天気のよい日の昼休みには、お弁当を持って公園に行き時間を過ごす。職場近くのその公園は、広すぎず狭すぎず、わたしと同じようにベンチでお昼をとるサラリーマンや読書をする人、鳩にパンのカケラをまくひと、広場でゲートボールを楽しむひとたちなどでにぎわうアットホームな感じの公園だ。桜の季節はピンク色、いまは緑の木々が美しい。

わたしの足もと近くに、すずめがやってきた。ちょこちょこ跳ねて、とってもかわいらしい。茶色の素朴な感じの着物も、お顔の模様も大好き。自然に顔がほころび、その子たちをずっと目で追いかけていた。

***

 ことり   まどみちお

そらの
しずく?

うたの
つぼみ?

目でなら
さわっても いい?

『まどみちお詩集 ハルキ文庫』より

***

ほんとうに、目でそっとそっと、大事にふれていたい気持ち。

==

五月に咲くハナミズキ。空に向かって顔を上げ、ほほ笑みながら咲いている。毎朝その花を見上げては、きょうも頑張ろうとわたしも上を向き元気を出すようにしていた。

でももうその花も終わりかけ。すこしさみしく感じていたら、そのすぐそばに、アジサイらしきものを見つけた。大きめの葉っぱのあいだから、花のもととなる、つぶつぶの集まった小さなあたまみたいなのが、いくつも出現しはじめていた。

うぁ、うれしいな! これからは毎朝、この子の成長ぶりを見ながら歩くことにしようっと!

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2011年5月 8日 (日)

母の日に思う母のこと

きょうは母の日。

実家のある岐阜から離れ都会に暮らす私は、いまでは母とは年に1,2回しか顔を合わせない。でもことしは、つい2か月ほど前に会ったばかりだ。

3月12日、大震災が起こった翌日に。

本当は3月11日(金)の夜、母と待ち合わせをしていた。しかし昼間に地震が発生し交通機関がストップ。お互いに動けず、ようやく会えたのは翌日の午後3:00すぎだった。
ホテルのロビーの椅子で一夜を明かした母。ほとんど眠れなかったうえ、その日も電車を乗り継ぐのにものすごく苦労し、へとへとだった。

どこへも行けないけれど、せめて、と近くの和菓子やさんで甘いものを調達し、アパートへ戻った。余震も続き、テレビに映し出される光景を見ながらだから穏やかな気持ちではいられなかったけれど、草餅や桜色のおまんじゅう、お団子を食べながら体を休めた。

母は一泊し、翌日朝早く、電車が心配だからとすぐに帰った。せっかくはるばる来てくれたのに何もできなかったなぁと申し訳ない気持ちになる。仕方がないけれど。

また別のとびきりおいしい和菓子やさんを発見したから今度一緒に食べようね(母も私も和菓子に目がないのです)!

*

母に教わって、私がいまでもかたくなに守り続けていること。

・ランドセル(かばん)をまたがないこと。

・夕方5:00以降につめを切らないこと。

・玄関のくつをそろえること(←でも、うちの母、守っていないことがあるよ!)

うちの母は、はっきり言ってあまり家庭的ではなく、私があこがれる母親って感じではない。もっともわかりやすいのが、料理をあまり作りたがらないこと。でも最近、実家に帰った時は、ちくわの卵とじとみそ汁を作ってくれた。作ってくれたことに驚き、感動した。でもそんな母とは逆に、姉と父が料理好きなのでバランスがとれていると言える。

そうして、母は外へ、外へ出かけたがる。きょうも母の日だっていうのに夜勤らしい。ほんとうによく働く。仕事が好きなのか、せずにはいられないのか。占い師にも、あなたは70すぎまで働くと言われたと、自慢げに報告してきた。たぶん、体力がもたなくなるまで働きつづけるような気がするけれど、あまり無理はしないでほしいな。

料理を教えてもらったことはないけれど、いつも部屋の掃除が行き届いていたわけではないけれど、母から教わったことは限りなくたくさんある。

幼いころは誰もがそうだったのかもしれないけれど、親や先生などの大人の存在は、スーパーマンだった。でもいつしか、自分の親もひとりの人間であることに気づくようになる。親の弱い部分が見えてしまったときが本当に一番つらい。目をそむけたくなるけれど、認めて乗り越えていかなくてはならない。中学、高校、大学時代の私にとって、それは相当の苦しみだったけれど、でも同時に、それ以上に、母の強さがものすごいものであることも知った。

どんな逆境にも絶対に負けない。途中で弱ることもあるけど、絶対に、絶対にダメになってしまうことはない。彼女のさまざまな逆境を目の当たりにまたは共にしてきたけれど、本当に、よく生き延びてきたものだなと思うほどの強靭な精神を持っているものだ、と自分の母ながら、思ってしまう。普段ははちゃめちゃな寅みたいな(寅年うまれ。でも肉が嫌い)ひとなのですが。

私が勝手に都会に行くと決めたとき、周りのひとみんなが「心配だね。気をつけて」という言葉をかけてくれるなか、うちの母は、「遊びに行けるわ~♪」なんて喜ぶばかりだった。うんうん、また遊びに来てね。いつもありがとう。待ってます。

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2011年5月 6日 (金)

藤城清治 自宅スタジオ展へ

きのう、「藤城清治 目黒・自宅スタジオ展~玄関でふくろうとワライカワセミと猫とサルーキー犬とディスカスがお出迎え」に行ってきた。

この展覧会がはじまったことしの4月17日は、藤城清治さん87歳の誕生日。展覧会の4日前まで、5月中旬に出版される絵本『マボロシの鳥』(太田光原作)の創作を続けるなど、いまも元気にご活躍中である。

幼いころ、NHKの影絵の人形劇を見ていた。藤城さんの描く人形のくりくりっとした眼が印象的だった。数年前には、愛知県の高浜市やきものの里かわら美術館で開催されていた展覧会で、光に満ちあふれた藤城さんの絵をはじめて目の前で見ることができ、ものすごく感動したことを覚えている。

今回は、美術館ではなく自宅スタジオでの展示。
会場に入っていちばんにわたしたちを迎えてくれたのが、本物のふくろうとカワセミ、2匹の猫たち。藤城さんがいつもこの子たちと暮らしていることを思うとますます愛らしく思えた。友人はふくろうに心を奪われ、スタートの瞬間で足が止まって動けなくなっていたほど。スペースも広く天井も高い洗練された近代的な美術館ではなく、狭いらせん階段をのぼったり降りたり、そのあいだにワンちゃんのお部屋があったり――こぢんまりとした自宅スタジオでの開催、あたたかみがあってとてもよかったです。

藤城さんの作品は、本当に本当に素敵だ。この素晴らしさはわたしの拙い言葉では表現しつくせないのだが、いつまで眺めていても眺めることをやめられない、どこまで眺めまわしたって眺めつくせないほど素敵なものが絵のなかにこめられている。

小鳥や草花や猫や魚・・・まわりのあらゆる生き物たちに対し、彼がどれほど愛しく思っているのかが、美しいメロディーが流れ出るかのように伝わってくる。すると、わたしの心のなかでも喜びがはじけてキラキラと輝きだす。いくつになっても変わることのない藤城さんの純粋な心にふれて、眺めるほどに涙がこぼれそうになった。

メルヘンでとってもかわいらしい作品がほとんどなのだけど、同時に、生きることへの、生き物たちへの強いメッセージも感じられる。

本当にとても素敵な展覧会でした。メルヘンなもの、ロマンチックなもの、こびと、猫、ロバ、草花、ピアノ・・・などが好きなひとにぴったり。そうでなくても、ひとりでも多くの人がここを訪れて彼の絵に出会ってほしいなと思いました。
私は、毎日、帰り道に寄りたいくらいの気持ちです。

展覧会は、5月29日(日)まで。洗足駅から徒歩8分。詳細はこちらです。

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2011年5月 3日 (火)

岡本太郎に会いにいく

「生誕100年 岡本太郎展(東京国立近代美術館)」に行って来た。

3月あたまから開催されていて、ずっと行きたいと思っていた。気づいたら最終日は5月8日と迫っている。行かなくては。よし、明日の朝いちばんに行こう! きのうの夜寝る前に、急遽それは決まった。

到着したときにはすでに長い行列ができていた。チケットの列、入場制限の列、商品購入の列。ゴールデンウィーク後半の三連休の初日だから混雑は覚悟していたけど、開館して10分しかすぎていないのに入場制限とは少し驚いてしまった。大通りの向こうで、皇居まわりをランニングするひとたちを眺めたり、岡本太郎展に来るのはどんな客層なのか、観察したりして時間を過ごし、ようやく会場内に入ることができた。

岡本太郎とさまざまなものとの「対決」が、7章にわけて展示されていた。「きれい」な芸術との対決、戦争との対決、岡本太郎との対決――彼のメッセージは、その強烈なインパクトのある絵や作品から容赦なくこちらに迫って来た。

ほんとうに、彼のいう「何だ、これは!」だった。「好かれる芸術なんて本物じゃない」・・・目がちかちかしてあたまがくらくらするような色づかいと力強い描きぶりは、恐怖を感じるほど鮮烈なもので、自分の家のリビングルームに飾っておきたいとはちょっとというか絶対に、思えない作品たち(もちろん、そういう作品ばかりではなく、かわいらしい「こどもの樹」や、「顔の時計」、「夢の鳥」ティーカップセットなど、ほしい!と思う作品もたくさんあるのだけど)だった。最終章の「岡本太郎との対決」では、「眼」をモチーフとした絵が壁の上から下まで全部、余すところなく掲げられ、四方八方からにらまれて襲われているようで、ほんとうに強烈だった。おまけに、すこし休もうと思ってもそこにあるのは、「坐ることを拒否する椅子」。たぶん、その部屋には30分もいられないだろうと思った。

あらゆるものと「対決」して、「ノン」をつきつけた彼。自分のなかの毒を毒として、人間のなかにある醜さを醜さとして、表現しつづけた。彼のことばに、こんなものもある。「絶対に自分自身と妥協しないことを決意しなければならない」それは、どれほど大変な、自分自身との闘いだったであろうか。もちろん、ひとと、芸術と、世界と、あらゆるものとの対決は、並の心でできることではない。でも、もっとも苦しいのはやはり、自分自身との対決だったのではないだろうか。

会場の出口で、ひとりにひとつ、くじ引きのようなやり方で、岡本太郎からの言葉をいただけた。わたしのいただいた言葉は『好かれるヤツほどダメになる』。胸をえぐられるような気持ちがした。だって、そう、10代、20代のころよりはそういう気持ちは少なくなってきたけれど、でもやっぱりひとから好かれたいと日々思ってしまうから。そうして、知らないうちに(いやいや、正直にいえば意識的にですね)好かれるようにするにはどうふるまうか、なんて考えて行動しているのだ。ああ・・・、岡本太郎さんがそばにいたら、自分の偽り、嫌らしさ、醜さ、すべて見抜かれてしまうに違いない。

社会に生きていればいろいろわずらわしい人間関係も避けられないから、どうしても自分をつくってしまう。家族や仲良い友人たちにさえ、もっともっとぶつけていきたい、ぶつけていかなきゃいけない気持ちも心の中にはたくさんあるはずなのに、そういう気持ちをまだまだおさえて日々をやり過ごしている。

岡本太郎さんからもらった言葉にショックを受けた一方、生まれたばかりのときのように、生まれたばかりのときの声のように、いろんなものに対してもっと気持ちをそのままぶつけて生きていけばいいのかもしれないなと、少し心が楽になったような気もした。

彼に会いに行って本当によかった。都内にある岡本太郎記念館や、川崎市岡本太郎美術館へも、また足を運んでみよう。

東京国立近代美術館での展示は5月8日まで、あと少しです。

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2011年5月 1日 (日)

わたげをとばす その2

目の前にふとあらわれた、小さな小さなパラシュート。

きのう道を歩いていたら、ひとり風に乗って運ばれていくたんぽぽのわたげに出会った。
あまりにもか細く、油断すると消え去ってしまうくらいはかなげで、本当に見ているのかわからないような気持ちにさえなった。思わず立ち止まって、一生懸命、見つめた。

幼いころ、わたげつきのたんぽぽを摘み取って自分でふーっとやってみたことはあるけれど、こんなふうに道端で偶然、飛んでいるわたげに出会えたのは生まれて初めてかもしれない。

最近、たんぽぽのわたげに思いを馳せていたから、その願いが叶って出会えたのかもしれない。それとも、いつだってわたげたちはいっぱい飛んでいたのかもしれないけれど、わたしが見ようとしていなかっただけかもしれない。

***

 あいたくて

だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた――
そんな気がするのだけど

それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのか――
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている

(後略)

『工藤直子詩集』 ハルキ文庫 より

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4月26日、ひとつ前の記事と同じ、工藤直子さんの詩。やっぱり、「あいたくて」なんだよね。

わたしたちは、生きているあいだじゅう、こうやって、あいたいと思うだれかを、なにかを、探し求めているのかもしれない。わたげは、「あいたくて あいたくて」という気持ちを持っていく場所を探し求めながら飛んでいるのかもしれない。

ひとつのたんぽぽは、たくさんの「あいたくて」のわたげを持っている。

同じように、わたしも、たくさんの「あいたくて」のわたげを持っている。

「それが だれなのか なんなのか あえるのはいつなのか」わからないわたげもたくさんある。生きているあいだずっと、そういう種は次から次へと生み出されるから、なくなることはないはずなのだ。

*

あいたいと思えるひとがいるのは、ほんとうに素敵なことだ。

あいたいという気持ち、ただそれだけで嬉しくてしかたなくなる。ときには、切なくて、苦しくてしかたくなる。でも、そういう気持ちを持てるひとがいるということ、なんてしあわせなのだろう。あいたいと思わせてくれて、本当にありがとう。

あいたいと思えるものがあるのは、ほんとうに素晴らしいことだ。

あいたいという気持ち、ただそれだけで頑張れる。ときには、あまりにも道のりが険しいことに気づいて苦しくなることもあるけれど。でも、そういう気持ちを持てるものがあるということ、なんてしあわせなのだろう。(わたげを飛ばし続けている、翻訳のことを思い浮かべて書いています)。わたげを飛ばし始めて5年。相手の翻訳さんのほうから、小さなわたげを飛ばしてくれることがあると、本当に本当に感激する。感謝の気持ちでいっぱいになる。

わたげを飛ばし続けていれば、いつかの春に必ず、ゆるぎない根をもった花を咲かせることができる。

いまは、あいたいというひとつの気持ちだけで、わたげを飛ばしつづければいい。

あいたいという気持ち、それだけでいい。

きょうもこうして、わたげをとばしています。

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