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2011年5月 1日 (日)

わたげをとばす その2

目の前にふとあらわれた、小さな小さなパラシュート。

きのう道を歩いていたら、ひとり風に乗って運ばれていくたんぽぽのわたげに出会った。
あまりにもか細く、油断すると消え去ってしまうくらいはかなげで、本当に見ているのかわからないような気持ちにさえなった。思わず立ち止まって、一生懸命、見つめた。

幼いころ、わたげつきのたんぽぽを摘み取って自分でふーっとやってみたことはあるけれど、こんなふうに道端で偶然、飛んでいるわたげに出会えたのは生まれて初めてかもしれない。

最近、たんぽぽのわたげに思いを馳せていたから、その願いが叶って出会えたのかもしれない。それとも、いつだってわたげたちはいっぱい飛んでいたのかもしれないけれど、わたしが見ようとしていなかっただけかもしれない。

***

 あいたくて

だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた――
そんな気がするのだけど

それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのか――
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている

(後略)

『工藤直子詩集』 ハルキ文庫 より

***

4月26日、ひとつ前の記事と同じ、工藤直子さんの詩。やっぱり、「あいたくて」なんだよね。

わたしたちは、生きているあいだじゅう、こうやって、あいたいと思うだれかを、なにかを、探し求めているのかもしれない。わたげは、「あいたくて あいたくて」という気持ちを持っていく場所を探し求めながら飛んでいるのかもしれない。

ひとつのたんぽぽは、たくさんの「あいたくて」のわたげを持っている。

同じように、わたしも、たくさんの「あいたくて」のわたげを持っている。

「それが だれなのか なんなのか あえるのはいつなのか」わからないわたげもたくさんある。生きているあいだずっと、そういう種は次から次へと生み出されるから、なくなることはないはずなのだ。

*

あいたいと思えるひとがいるのは、ほんとうに素敵なことだ。

あいたいという気持ち、ただそれだけで嬉しくてしかたなくなる。ときには、切なくて、苦しくてしかたくなる。でも、そういう気持ちを持てるひとがいるということ、なんてしあわせなのだろう。あいたいと思わせてくれて、本当にありがとう。

あいたいと思えるものがあるのは、ほんとうに素晴らしいことだ。

あいたいという気持ち、ただそれだけで頑張れる。ときには、あまりにも道のりが険しいことに気づいて苦しくなることもあるけれど。でも、そういう気持ちを持てるものがあるということ、なんてしあわせなのだろう。(わたげを飛ばし続けている、翻訳のことを思い浮かべて書いています)。わたげを飛ばし始めて5年。相手の翻訳さんのほうから、小さなわたげを飛ばしてくれることがあると、本当に本当に感激する。感謝の気持ちでいっぱいになる。

わたげを飛ばし続けていれば、いつかの春に必ず、ゆるぎない根をもった花を咲かせることができる。

いまは、あいたいというひとつの気持ちだけで、わたげを飛ばしつづければいい。

あいたいという気持ち、それだけでいい。

きょうもこうして、わたげをとばしています。

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