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2011年6月

2011年6月30日 (木)

2011、後半戦へ

きのうと比べれば体調がいい。体がすこし軽くなってきた。

夕方に夕立がきて真っ黒な空から一気に雨が降ったかと思ったら、帰る頃には青空から明るい光。きっとそれも、体調と気持ちを上向きにさせてくれた魔法のひとつなのだろう。

きょうは、6月最後の日。1年のちょうど半分の地点。あしたからは後半に入る。

2011年の始まりに、私はなにを思っていたのだろう・・・。ここに書いた1月の記事をさっと見返してみる。ふむふむ。記事のなかに、「本厄」の文字を発見。あぁ、そういえば私、今年は本厄だったんだった。すっかり忘れていた。「ホンヤク」の年なのだ。「本厄を乗り越え、翻訳を愛し、本訳者(本物の訳者)になれるように頑張ろう」と書いてあるじゃないか。

新年に願ったときの熱さを持ち続けて、翻訳に励むことが出来ていますか。そう自分に問いかける。・・・「はい、もちろん!」と元気よく言える自信がない。だから、12月31日には力強く「そりゃもう、とことん頑張ったさ!」と言えるようにしよう、本当に。

ついでに、2月、3月・・・これまでの記事をざっと見る。あぁ・・・はずかしいね。不安定な気持ちばかり。言いわけっぽいけれど、たぶんなんとかしなければと思って、書くことで自分の気持ちを整理しているということなのだろう。

それにしても、もう本当にどうにかしなければと思って、ここ1カ月半くらい、気持ちを整理することに努めていた。でもねぇ。自分で気持ちをうまくコントロールして、きちんとおさまる場所にそれをおさめてやることなんて、とても難しいことなのだ。急いでやろうったって、できるわけがない。時間も必要だし、無理やりやろうとしたとしても、「うそ」になるだけ。しばらくすると、「ほんとう」が「うそ」の薄い皮を破ってまた顔を出すにきまっている。

でも、私のよくない癖――あまりにも自分に関心を向けようとしがち(つまり自意識過剰、自己中心的になりがち)であること――には気をつけなければいけない。もう30を越えているというのになんとも恥ずかしいことで、直したい。直さなきゃいけない。どうしてもそうなってしまうのなら、まずはそれと同じくらい、周りの人のことを考える癖をつけたい。必ず、自分のことよりも先に。

2011年。なんということもない日々のなかで、予想もしなかった大災害が発生した。そしてその後も日々は積み重なっていった。たくさんのことを、考えた。地震のことも、いつもと変わらない日常のことも。これからも同じように、考えていく。今日も長野県で大きな地震が発生した。怖い、と思う。いつどこで、どんな災害に合うのか、本当にわからない。でも、いま、自分は生きているから。いま、こうして生きて、いろいろ考えることができるから、これからの半年も、いまを大事に、やりたいこと、やらなきゃいけないことをやっていこうと思う。

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2011年6月29日 (水)

夏の悩み

冷房病になりかけている気がする。

頭と肩、背中までがちがちで固まっている。頭から目の奥にかけて、ずーんと重くて痛い。全身がだるくて足が重たくて、いつもならいくらでも歩きたいと思うのに、駅から家までのたった20分足らずの距離がしんどい。一日に何度か、急に胸やのどのつまりにおそわれて気持ちわるいよ。数分我慢すれば消えるのだけど。眠っているときでさえ、その症状によって目覚めさせられてなんとも厄介なのだ。自律神経が乱れていろいろな症状が出てしまうのかなぁ・・・。ひどくなると(いまはまだ平気だけど)、暑い場所に戻っても体から冷えがとれなくてくしゃみ鼻水がとまらなくなる。体温の調節機能が大きく乱れてしまうのか、ガタガタ震えたりほてったり、暑いのか寒いのかわからなくなってどうにもならなくなる。恐ろしいです。本格的な(寝込むほどの)風邪は、もう5年間くらいひいていないのに(おバカさんかしら)、冷房病には毎年悩まされてしまう。

夏のクーラーがとても苦手だ。電車のなかや職場、そのほかクーラーのきいた建物の中などに長時間とどまらねばならないとなると、まずクーラーのことが心配になり、はおりものにひざかけ、ハイソックスなど、闘うための準備を整える。

今年の夏は節電の夏だから、少しは効きが甘いのだと思う。でも私にとってはそれでもほとんど変わらず、対抗しきれない脅威なのである。例年より弱めてあるにせよ、風の吹き出し口があらゆるところについていてまったく逃げ場がない電車に乗らなければならないのが、毎日の悩み。

みなさん涼しい顔をして電車に乗っている(もしくはそれでも暑そうにしている方もいる)ように私には見えるけれど、私と同じように冷房病に悩む人もいるのではないかなぁ。

カーデガンをはおり、ストールを首にぐるぐる巻いてしのいだり。はだしにサンダル・・・あこがれるけど、できない。夏でもいつでも、年中、熱々のお湯にしょうがチューブをたっぷりしぼったものを入れた魔法瓶を会社に持っていく。時にはカイロを貼る。体をあたためる食べ物を食べる(もともとそういう食べ物が大好き。しょうがとか、根菜類とか、黒っぽいものとか)。冷え改善のつぼを押す・・・などなど体を冷やさない工夫はたくさんしているつもりなのだけど、冷房さまには、なかなか勝てない。

扇風機の風なら平気。どうも、クーラーのあの奇妙に冷たい風がダメみたいだ。暑い夏をうまく乗り切るためにクーラーは欠かせないものだとはわかっているし、仮にクーラーをまったくかけない状態にしたとしたら、もっと耐えられない環境になるだろうということはよくわかる。熱中症対策にも必須だ。クーラーがなければいいのにとは、決して思わない。

しかたがない。私の体が、クーラー不適応なのだから。もっと、闘えるようにパワーをつけることが一番の対策かな。家では、自然の風と扇風機、うちわと保冷剤を手に、たっぷり睡眠をとろう。

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2011年6月26日 (日)

雨粒みたいなレモンクッキー

いつの日か、シフォンケーキ&焼き菓子のお店を出そうと修行中の私の姉。うずまきクッキーに続く第2弾として、またクッキーを焼いたよと知らせてきました。

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『レモンクッキー焼いた。レモンのアイシングがかかってる』 

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『チビがかわいいだろ』 (姉のコメントより)

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さあ、召し上がれ!

ほんとう、チビたち、コロコロしててかわいい! 仲良く並んでいるね。
まるで雨粒みたいだ。ふぞろいな雨粒。

味はどうなんだろう。アイシングだから甘そうだけど、レモンだから爽やかさも含まれているんだよね。
さくさく感はどうかなぁ。口に入れるとほろほろと崩れていく感じ? それともしっかりとしたかみごたえがあるのかな。

あぁ・・・食べたいよう!

私、ちゃんと辛口の評価をしてあげるのにな。私が実家にいたころは、一番に食べさせてもらえたのに。いまはそれができなくて悲しいのです。

でも、いま姉がお菓子作りを楽しんでいること、そのことが私にとっては一番嬉しいのです。ちっともやる気が起きないとか、店なんてできるはずがないとか言っている時期が続いていたかと思うと、突然やる気100倍になってお菓子作りの腕を上げようと頑張り始める、浮き沈みの激しいうちの姉 (・・・まあ、私も、翻訳の夢に向かう時、やる気のある時とうまくやる気を出せない時との差が恐ろしいくらいあるから、人のことはまったく言えないのですが・・・反省)。

姉よ、いまの勢いで頑張って!! 

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2011年6月23日 (木)

花のそばへ

具合が悪くて1年間お休みをしていた上司が、ゴールデンウィーク明けに復活した。どうかなぁ、大丈夫かなぁととても心配していたのだけど、この1か月半、元気に出勤している。

1年前の上司といまの上司、私には別人に見える。表情がまるで違う。こんなにフレンドリーな方だったのか、ということに初めて気づく。出勤が再開されてはじめのころは、その笑顔がちょっぴり無理をしているようにも感じられた。1年間のブランクがあるのだから無理はない。でも最近は、穏やかで落ち着いた表情や、とびきり元気な笑顔を見せてくださる。

チェックしているわけではないけれど、毎朝必ず私は彼の顔を一番に見てしまう。ああ、いい顔をしてる、よかった! 元気そうだとほっとする。嬉しくなる。

1年ぶりの再会なので最初は私も少し緊張した。でもその上司のほうが、その何十倍も緊張しているに決まっている。職場の周りの人たちが彼を見るたび「よっ、元気か!」なんて声をかけてじゃれ合っている。あったかいなぁと思う。いまではもうすっかり打ち解けて、1年前の彼と私たちとの遠かった距離がウソみたいに思える。

いそぐことなく、1年間かけてゆっくり調子を整えて、奥のほうに眠っていたいい表情を取り戻すことが出来たのだなと思う。

*

体や心の具合は、これほどにもその人の表情や醸し出す雰囲気を変えてしまうものなのか、と思う。うん、そうだよなぁ。具合が悪いのにとびきりの笑顔を見せることはなかなか難しい。うまく笑えないときは、体か心か、どこかのネジがゆるんでいるのだ。体調の乱れは実際に痛みや不快感などにあらわれるからわかりやすいけれど、心の乱れはわかりにくい。わかっていても、気づかないふりをしようとしてしまうことさえある。

自分の心が何だかよくわからない――そういうときには、ゆっくり息を吐いてまわりの景色を眺めてみる。道端に咲くアジサイの前で立ち止まってみる。

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そうして、花に近づいてみる。

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もっともっと近づいてみる。
(カメラ好きの友人のつぶつぶ撮り写真をマネして私も挑戦。携帯カメラですが。何だかぼやけてしまっているけれど。でも、つぶつぶが嬉しい!)

***

 花のかず   岸田衿子

ひとは行くところがないと
花のそばにやってくる

花は 咲いているだけなのに
水は ひかっているだけなのに

(後略)

『いそがなくてもいいんだよ』 岸田衿子 童話屋 より

***

こうやって花のそばにやってくると、心の奥からブァっと何かがわき出てくるような感じがする。ブァっと、ではなくてじわじわ・・・のときもある。そうして、無理のない笑顔を取り戻せることもある。

「体、大切にね」「体に気をつけてね」とはよく言うけれど、それと同じくらい心も大切にしてあげなくちゃ。心に気をつけてね、と言いたいな。心につまったものを、たとえ小さなものであっても、日々取りのぞいてあげなきゃなと 思う。

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2011年6月21日 (火)

父の日に思った父のこと

ひと月まえの母の日に母のことを書いたので、父の日には父のことを(もう2日も過ぎてしまったけれど)。

父は、あまり料理をしたがらない母とは反対に、料理が好きだ。いろいろと作っては、私たちに「食べろ、食べろ」を連発する。でもとてもおいしい。かなり大ざっぱで雑なところもあるが、料理のセンスがあると思う。

作ってくれるものは、焼き魚や煮魚が多い(父も、私たちも魚が大好き)が、母の好きなさつま芋の天ぷらやかき揚げ、炊き込みご飯にお好み焼きなど何でもあっと言う間に作る。ただし、肉がメインの料理は我が家の食卓にはめったに登場しない。焼きそばに入るのも、肉の代わりに焼きちくわ。牛肉なんてものはまず見かけない。年に一度くらい、父が張り切ってステーキ用の肉を買ってきたり、正月にすき焼きをやったりするくらいだ。

肉の日は、父の「食べろ、食べろ」にますます力がこもる。うんうん、食べとるで、と言うのだけど、父にとっては、子どもに牛肉を食べさせるということがよっぽど重要なことのようで、お皿をどんどんこちらに寄せてくれる。

小学校高学年くらいのときだったと思う。ある日、父に焼き肉屋に行こうと誘われた。母は肉が得意ではないのでパス。姉も興味を示さなかった。というわけで、父と私のふたりで行くことになった。それも、父の職場の近く、電車で一時間以上もかかるところにあるお店らしい。うまい焼肉屋にどうしても私を連れて行きたい。うまい肉を食べさせてやりたい。そういうことだ。

店は、高級店でもなんでもなく仕事帰りのサラリーマンたちが集うような庶民的で小さな居酒屋のようなところだった。周りは父と同じくらいの年齢の男性ばかり。小学生の女子というのは場違いな気がして、体が縮こまってしまう。でも父が、嬉しそうにどんどん肉を焼いてくれる。確かに肉はとてもおいしかったのだろうけど、その肉の味よりも何よりも、「食べろ、どうだうまいだろ」を繰り返し、私がおいしいと言うと満足げな表情でビールをのむ父の姿が、ほどよく焼けて香ばしいにおいを放つ焼き肉のようにいまでも私の心に焼きついている。

父の日には、この夏少しでも涼しく過ごせるようにと思い、スポーツ用のメッシュのTシャツを贈った。とてもささやかなものだけど。私と似て散歩好きな父であるが (と言いますか、私の散歩好きは父から譲り受けたもの。気の向くまま足の向くまま、父とは近所をよく散歩したりつくしを採りに行ったりしたものです)、あれほど散歩好きだった父が、最近は体調がすぐれず出かけようとしない日も多いとか。涼しげなTシャツを着て、少しでも外に出かけてもらえるといいなぁということを願って。

女子には必ず訪れる(と私が勝手に思っているだけなのかもしれないが)お父さん嫌いの時期が、私の場合は20代前半にやって来た(遅いのかな。そして、ふと疑問・・・男の子にも、お母さん嫌いになる時期があるのかな)。そのまま私は家を出てしまったので (言いわけだけど)、実はいまでもその名残であまりうまく言葉を交わすことができない。
姉から、「荷物が届いた。お父さんがありがとうと言っていたよ」とメールが来た。「寝る前にトイレいったときの横顔が喜んでたよ」と。

そうやって言われるとやっぱりちょっとだけ嬉しい。父がいまでも私の父であって、家族としてつながっていられてよかったと思う。何度も家庭の危機があってバラけてしまいそうになったときもあったけど、あのときは何も考えられなかったけれど、当たり前のようだけどちっとも当たり前ではない家族が家族のままでいられてよかったと、いまはちゃんと思える。

どうかこれからも、元気でいてくれますように。

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2011年6月15日 (水)

ぐんぐん、ぐーん ぐん!

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日に日に背を伸ばす、メメ、ママ、モモちゃん(左から)。 ぐーん ぐん ぐん!

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ほら、葉っぱもこんなに大きく広げている。

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みつば。友達、いっぱいふえてきたね。

++

気づけば、6月もあと半分。

ということは、2011年ももうすぐ後半に突入だ。

そのまえに、気持ちをしゃんとさせたい。

いまはまだ、走り出す準備が整っているとは言えない。よーいどん! の合図とともにスタートを切る自信がない。しっかりと構えて、どこへ向かっていくのかきちんと狙いを定めることができてはじめて、走り出すことができるのだ。

きのう書いた記事は、まとまりがなく本当にみっともなくて反省した。消したい気持ちにもなったけれど、こうやって自分を見つめることも必要かなと残したままにすることにした。乱れている部分を少し直した。ちゃんと、落ち着こう。

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ひらひらひらひら。まるで蝶々が飛んでいるみたい。

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2011年6月14日 (火)

みっともないけれど

みっともない私。

みっともないくらいに自意識過剰になったり、みっともないくらいになにかに熱くなったり、だれかのことを想ったりする。そしてここにさえ、みっともないことを書きつづってばかりだ。

なんてみっともないんだ! と落ち込みそうになる。

そして、こんなふうにみっともないみっともないと言っていることにますます落ち込みそうになる。

そもそも、こういうことを考えていること自体、自意識過剰ではないか・・・みっともないね(堂々巡り)。

でもね、ずぶずぶとは落ち込まないよ。

これはもう、みっともないままに生きていくしかないのかと(おやおや、開き直ったな)。 

小学生、中学生のころの私は、こういうみっともなさを表に出すような子ではなかった気がするのに。思いこみかもしれないけれど、周りからはいつも冷静でおとなしい子と捉えられていたような気がするのに。

どうしちゃったのだろう。

きっと、子どもの自分もいまの自分も、内に秘めるエネルギーの量は変わっていない。ただ、それが年を重ねるごとにどんどん燃え出し、おもてにあらわれるようになったのかもしれない。上手に使うことができなかったエネルギーを、うまく放出できるようになったのだろうか。でもそれがみっともなさにつながっているなんて・・・!

それにしても、みっともない生き方をやめることなんて、できないよなぁ。

だから、頑張ってみっともなくないようにしようとしなくても、みっともなくても素直に生きるしかないのだ、きっと。むしろ、みっともないということこそ、生きている証なのかもしれないな。みっともなくない自分なんて、本当の私じゃないよ。
なんて、こんなふうにいまの私は、そういう自分を受けとめてどうにかやりくりして生きている。

そしてやはりこれからも、ここにみっともないことばかり書いてしまうのだと思う。いつも、書きたいことを、書きたいときに、書きたいだけ、書いてしまう。心に思ったことをそのままに。あるときは飛び跳ねるような嬉しさだったり、わくわくする気持ちだったり、またあるときは下を向いてしまったりする気持ちを――。人を嫌な気持ちにさせるような文章は書いてはいけないと気をつけているけれど、今日もまた、こんなにもみっともない文章を書いてしまった。

こんな私の文章を、いまそれでもここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

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2011年6月13日 (月)

だんだんと日が暮れる

日が長くなったなぁ。

午後6時。外はまだ昼間のように明るい。冬ならもう真っ暗の時間帯だから早く帰らなくちゃと足も速まるところだけど、日が長くなってこれほどにも明るいと、元気なのに会社を早退したような、ちょっぴり後ろめたいような感覚にもとらわれてしまう。

電車に乗っている約1時間のあいだ本を読みながら、ときどき窓の外にも目をやってみる。徐々に日が暮れていく。さっきまでは昼間のようだった空がグレーに変わり、一部分ではうすいピンク色にもなっている。

電車から降りたときには街の明かりが灯りはじめ、外はうす暗い風景に変わっていた。降りた駅から家までは歩いて20分。しだいに暗くなる空を眺めながら、思った。こうして少しずつ明るさを消してくれる自然って、やさしいなぁ、と。
同時に、思い出した。計画停電が実施されていたころ、一度、時間を間違えてメモしてしまい、とても驚かされたときのことを。幸い家にいたのだけど、テレビも電気も外から入ってくる光も一瞬で全部消え、音も消え、何が起こったのかと思った。そのころだから突然停電が来てもおかしくないという覚悟はできていたものの、何の前ぶれもなく暗闇になることは恐怖だった。

だんだんと日が暮れていく。空を眺めながら、ああ今日も一日ありがとう、なんてたそがれてしまった。

過ぎてしまうと、ときが経つのはあっという間だけれど、こうしてしだいに日が暮れている空を見ているとそれはとてもゆっくりしたものに感じられる。

そういう「とき」を、まいにち大切に過ごしていきたいなと改めて思った。

***

 とき

時計の針の
音もなくまわるのを見ている
ときが動いていくのを
はっきりと目でたしかめられる

でもこれはつくりもの
ぐるりと一周まわってまた戻って
おなじところを機械的にぐるぐる

やっぱりさ
カーテンをあけると一気にさしこんでくる
まぶしい朝の光

ゆうぐれどきの
少しひかえめになる 陽のさしこみぐあいと
夕方の空気
そして
気がつくといつのまにか増えている
空の星たち

そういうもので感じるのがいい
いまの この ときを

***

あの、これはまた恥ずかしながら、私が6年前くらいに書いていたちょっとしたつぶやきのひとつ(をちょっとアレンジしたもの)です。

夏至まではあと9日。明るい時間が長いこの季節を楽しみたいな。

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2011年6月12日 (日)

ねがい

もう半年以上まえのことなのだけど、学生時代に私がとても好きだった人に、数年ぶりに再会した。といっても、ふたりきりというわけではなく大勢のなかの一人として、なのだけど。

彼は私の2つ上の先輩だった。思いを伝えたけれど、うまくはいかなかった。当時の私には相当大きなダメージで、家族のまえですら、あふれる涙を止めることができなかった記憶がある。

その再会は、ほかでもないその人の結婚が決まったことをお祝いする集まりの場だった。私は別の用事のため途中からの参加。急いで店にかけつけた。・・・が、ちょうど一次会が終わってしまったようで、それらしき人たちが店から出てくるところだった。

彼がいた。ドキドキした。向こうも、私に気づいた。

「久しぶり!」

私はそう言って、右手をすっと差し出した。向こうもすぐに私の手をとり、にっこり笑って握手をしてくれた。

「結婚、ほんとうにおめでとう」

心のモヤモヤは、もうまったくなかった。お互いにためらうことなく笑顔で握手をし、まっすぐ前を見て言葉を交わせたことがとても嬉しかった。彼が結婚するということが、心から嬉しいと思えた。

もうすぐ奥さんになる方が店から出てくると、彼は奥さん(になる人)に、後輩だよと私のことを紹介してくれた。やわらかであたたかい雰囲気の方で、少し会話をしただけでも、やさしい人柄が伝わってきた。ますます、私は嬉しくなった。ほんとうに、お似合いのふたりだ。おめでとう、本当によかったね。しあわせになってねと、心から言えた。

*

好きな人と一緒になれないのは、自分にとってとても悲しいことだ。
でも、好きな人には、しあわせでいてほしい。その人がもっとも輝ける生き方をしてほしい(なんだか偉そうな言い方ですが・・・)。私がその人に近づくことができないということは、逆に、その人をもっと輝かせる別のだれかや別の事柄が必ずあるはずなのだ。

だから、人を好きになるということは、自分と一緒になってほしいとただ必死になることではなくて、その人が輝いていられますようにと願うことなのかもしれないなと思う。

好きな人が輝いているととっても嬉しい。好きな人が元気でいること、ただそれだけで私も元気になれる。

元気でいよう。相手だって、私が悲しい顔で過ごしているよりも、元気いっぱいに笑っていたほうがきっと嬉しいと思うから。前を向いて、新しい場所へ歩き始めたことを知ったら、絶対に喜んでくれると思うから。

恋する気持ちは消さなくてはいけないのだとしても、本気で好きになった人のことはきっとこれからも、人として、大好きでいつづけるような気がする。たとえばだけど、もし私がほかのだれかと結婚することになったとしても、新しく恋人ができたのだとしても、ずっと心のなかにいつづけるのだと思う。心のなかの私しか知らない小さな場所で、キラキラとひかりつづけるのだと思う。

元気でいてね。頑張ってね。もっともっと、輝いてね。心から、そんなことを願う。
私が好きになる人というのは、最高に素敵な人。なんてったって、この私が好きになるくらいなんだから(なんという、自分勝手な自信過剰・・・)! だから、絶対に、もっともっとキラキラした人生を歩んでいけるにちがいない。

私も、あなたに負けないように頑張る。いつか、負けないくらい輝いてみせる。

好きでいたときの弾むような気持ちと一緒に、あなたがくれたやさしい気持ちや励ましの言葉、笑顔や喜びなど全部、心のなかの小さな箱にしっかりとしまったよ。好きになることができて本当によかった。ありがとう。これからまた新しい気持ちで、頑張ります。

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きょう見たアジサイ。やさしいやさしい、ももいろとふじいろ。

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もっともっと、やさしいいろ。

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2011年6月11日 (土)

3か月

メメ、ママ、モモちゃんのほかに、もうひとつ育てている植物がある。

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小さな芽がいっぱいだよ。

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ほら見て! すこしずつ、その姿をあらわし始めた。

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これが、この子たちのタネ。

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3月12日。震災の翌日であるこの日、私は、岐阜から遊びに来た母と、アパートの最寄り駅にあるモスバーガーで待ち合わせをしていた。本当は、3月11日の午後7:00に会う予定だった。しかし、予想できるはずもなかった大地震。それぞれで夜を明かし、会えたのはおよそ20時間遅れの3月12日午後3時ごろのこと。

軽食を食べ終えたとき、思いがけず、店員さんから手渡されたプレゼント。

いくつもいくつも、芽を出してくれた。小さいけれど、しゃんとしている。毎日確実に、背を伸ばし、葉っぱを大きくしている。
いつか四つ葉が見つかるといいな。

震災から今日でちょうど3か月。想像を絶する大惨事にみんなが心を痛め、どうしてよいのかわからない気持ちになったり、でもどうにかしようと力をふりしぼって前を向こうとしたりしてきた。いまもなお、とても重くてたくさんの問題を抱えているし、そのなかでずっと耐え続けている被災者の方々や子どもたちの気持ちを考えるとやりきれない。でも、それでも、必死で顔を上げて立ち向かっている姿には、本当に、心を打たれる。

みんなが、頑張っている。だから、毎日確実に、前へ進んでいく。

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今日見たアジサイ。ふらりと立ち寄った小さなお寺(in上野)で。

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2011年6月 9日 (木)

生まれて初めてそらまめをゆでて食べた話

生まれて初めて、自分でそらまめをゆでて食べた。

実はこれまで、そらまめくんというものにはほとんど興味がなかった。あまり得意ではないものだと思いこみ、あえて近づこうなんて思ったためしがなかった。

幼いころたった一度だけ、塩ゆでのそらまめを食べた記憶がある。ちょっとくせのある味と香り。嫌いとまではいかなくとも、私の口に合わなかったようだ。それ以来、自ら食べてみようと思うことがなかったのだから。

ところが先日、急に、食べてみようという気持ちが沸き起こった。大人になった私の舌は、それをとてつもなくおいしいと感じ取れるように変わっているかもしれない。だとしたら、そらまめを食べない人生が、とてももったいないではないか。幼いころ苦手だったちょっとくせがある(と私が感じる)食べ物、たとえばホワイトアスパラガスやゆずや山椒などは、いまではまったく平気になったのだのだから、きっとそらまめだって大丈夫のはず。

まあね、私をそういう気持ちに駆り立てた一番のポイントは、そらまめがバラ売りされていたということなのだけど。スーパーマーケットでよく見かけるのは、大袋に10本も20本も詰め込まれて売られているものだ。でもその日は、1本29円でバラ売りされていた。思い切って、1本だけ買い物かごの中に入れる。そして、ウキウキしながら家に帰った。

さっそく食べてみることにする。そらまめそのものを堪能するにはやはり、シンプルな塩ゆでが一番だろう。ようし!

・・・っと、ところで、これはどうやってゆでればいいのだろう。

そらまめ調理が初めての私。みなさま、ちょっとあきれるかもしれませんが、どうゆでればいいのか、私は悩んでしまったのです。だって、考えてみてよ! おまめには、いろいろな調理のパターンがある。

①さやごと調理して、さやごと食べるもの。たとえば、さやえんどう、さやいんげん。

②さやごと調理して、中身だけ食べるもの。たとえば、枝豆。

③中身だけ調理して、中身だけ食べるもの。たとえば、グリーンピース。

そらまめは、いったいどれにあたるのだろう。

見れば、さやはとても大きい。肉厚で、なんだかおいしそうな気もする。ゆでてから小さめに切ってマヨネーズで和えるとか、炒めて食べるとかしたら歯ごたえがあっていいんじゃないか・・・なんて思って①か。

いやいや、こんな分厚いさや、固くて食べられないでしょ。そりゃ、取り出して調理の③にきまってる!

そうじゃなくてさ、同じ塩ゆでの仲間、枝豆と同じように調理しなきゃ、ってことで②か。

うむ・・・。迷いましたが、調べたところあっさり解決し(正解は③!・・・って、みんな知っててあたりまえか)、おいしく仕上がるようにちゃんと切り込みを入れてゆでてみました。

中で眠っていたそらまめくんは、さやの大きさから思ったらほんとうに小さいものがたったの3粒。それでも、ひと粒のお豆さんにおいしさがたっぷりつまっていた。幼いころ感じたくせのある味、やっぱり変わっていなかったけれど、それこそ、くせになる、虜になる味だと思った。ほくほくしてて、こんな小さなお豆なのにおいしさがぎっちりつまっているのだよ。ああ、そらまめくん、私は大人になったみたい! 食べてみてよかったよ!

残ったさやは、そらまめくんの宝物、ふわふわのベッドだ――『そらまめくんのベッド』(なかやみわ 作 福音館書店)というとってもかわいらしい絵本がある。「くものようにふわふわで、わたのようにやわらかい」ベッド。ほんとうだ!! そらまめくんは、このベッドで、大事に大事に守られて、春のおいしさを集めていたんだね。

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2011年6月 6日 (月)

その花の名は

きのう、いつもおじゃましている j さんのブログで、『柏葉あじさい』というあじさいがあることを知った。その名の通り、葉っぱが柏の葉にそっくり。花も、いつも見ているまあるい頭みたいな形ではなく、とんがり帽子みたいに空に向かって長細く伸びている、ちょっと変わったあじさいだ。

けさ、いつものように、いつもと同じ最寄り駅への道を歩いていたら、まさにその柏葉あじさいを発見した。「柏餅の葉っぱにとんがり帽子!」 きのう、画面でみたものと同じ姿だった。

これまでまったく目に止まらなかったのに、名前と姿を知ったとたんに、それは目に飛び込んできた。これまで君のこと、見ようとしていなくってごめんね。でも、こうして出会えてとても嬉しい! そんな気持ちになった。

歩いていて、名前がわからない草花はたくさんある。名前を知らなくても、その美しさやかわいらしさに心を打たれることは変わりないのだけれど、名前やその由来を知ることでさらに親しみがわく、ということがよくある。

たとえば、

baby's breath

英語ではこう言うのだそうです。何の花の名前でしょう。

・・・答えは、かすみ草です。

赤ちゃんの吐く白い息だなんて、なんてかわいらしい! 小さな小さな粒々が、たまらなく愛しく思えてきます。(以前、友人が貸してくれた『悩ましい翻訳語』という本でこれを知りました)。

それから、

ずっと気になっていた、あじさいに似たこのお花。

Image281

あまりうまく撮れていませんが、星がちかちか光っているみたいでとてもかわいらしいのです。

昨年も同じ場所でこの花を見て、あじさいの仲間に入れていいのか、何ていう名前なのか、とても気になっていました。でもそのまま一年が過ぎ、今年もまた出会って同じことを思い・・・。

今回はちゃんと調べて、わかりました。

その名は、『すみだの花火』。あぁ、本当だ! きれいにひらいた花火に見える!

その名前を知ることで、それまで見ていたものがまた違って見えたり、見ようとしていなかったものが見えてきたりする。嬉しいことだなぁ。もっともっと、名前を知りたいな、と思う。

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2011年6月 4日 (土)

よみがえれ、情熱!

きょうはよく晴れました! うれしい散歩日和。気づいたら2時間近く歩いていて、帰ったら汗びっしょりに・・・。

本屋さんで、サッカー日本代表長友佑都選手の『日本男児』(ポプラ社)を手にとり、思わず一気に読んでしまった。長友選手の熱い言葉が、まっすぐに心に向かってくる。なんて熱い人なんだ! どうしてこれほどにも強い心を持てるのだろう。

最近の私はかなり立ちどまり気味だった。やりたいこと、やらなきゃいけないことは山ほどあるはずなのに、自分を甘やかしすぎている。わかっちゃいるけど、でも少しだけ休憩も必要だなんて言いわけばかりして、ちっともやろうとしていなかった。

そんな自分がとても恥ずかしくなった。立ち読みしながら、恥ずかしさで熱くなってきた。でもその次には、それとはちがう熱さが心の底から沸き起こってきた。

「僕はこんなもんじゃない」――本のなかで一番衝撃を受けた長友選手の言葉だ。だったら、

「私だって、こんなもんじゃない」

そう言える。この本には、こんな私にも、はっきりとこう言わせてくれる力があった。絶対に、自分もできる。努力していける。壁をチャンスととらえて乗り越えていける。そう思う。

*

友人であり、尊敬する先輩でもある翻訳者さんが、最近また一冊訳書を出した。その本は、本屋のエンドの平台に堂々と積まれていた。それを手にとったとたん、体じゅうに電気が走った(ような気がした)。この本にこめられた友人のあふれるほどの気持ちが、手を通して伝わってきたかのように。本は、ズシリと重かった。

ちょうどこの本を訳している真っ最中、友人は、あまりにも忙しい日々ながらも輝いていたのだと思う。この本の翻訳がとにかく面白くて、楽しくてしかたがない。こんな面白い本の翻訳をやらせてもらえるなんて幸せだ、と言っていた。

学習中の身である私は、まだまだ本1冊の翻訳なんてしたことがないから、それがどれだけ大変なものなのかはわからない。寝ても覚めても、ずっとやりつづけたとしても、それでも足りない。もっともっと、私の想像をはるかに超えるくらいの努力が必要なのだろう。そういう状況のなかでも、心から楽しいと思って訳すキラキラの友人。なんてステキなのだろう。それが形になったのだ。

そんなことを思い出していたら、まだ読んでもいないのに、感動してしまった。読めばもっともっと、最高に感動するにちがいない。翻訳への愛がたっぷりつまった本。出版、本当に、おめでとう!

そう、そうなのだ。いくら才能のある人だって、努力なくしては成功なんてありえない。いま素晴らしく輝いている人だって、その裏に、並大抵ではない努力、努力、努力があるはずなのだ。そこにはその人だけの、ストーリーがある。何年もかけて、形にしてきたものなのだ。

私は、翻訳の勉強を始めてこの春で5年目に突入した。振り返れば、1年目、2年目などは、今とは比べものにならないくらい熱かったし、とにかく翻訳を勉強することが楽しくてしかたがなかった。少しのすきま時間も無駄にしたくはなかった。自分は何をしなくちゃいけないのか、自分には何が足りないのか。考えては、そのためのメニューをつくり、学習に励んでいた。

その情熱を、今日、思い出した。やらなくちゃ。今すぐに、やらなくちゃ。あのときの情熱がよみがえって来た。強い気持ち。絶対に、できる。やれば必ず成長する。

「私は、こんなもんじゃない!」

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2011年6月 2日 (木)

むずかしいね。

朝一番の、私の植物ちゃんたち(なまえは左から順に、メメ、ママ、モモちゃん)の様子。

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ほら、新しい葉もずいぶん大きくなったでしょ。とくに、メメの成長は目覚ましい。モモちゃんはちょっとひかえめだけど、かわいいよ。朝一番に、おはようと言いながら水をやり、帰ったら一番にこの子たちに会いにベランダへ。ああ、今日もお互い元気に過ごせたね、と安心する私なのです。

*

人ってむずかしいなぁ、と、ふっと思う。

むずかしいね、本当に。

人を大好きになったり、そうかと思えば思い切り大嫌いになったり。人間って本当に複雑に出来ているものなのだ。だから、人のことを想ったり、人と人とが関わろうとすれば、どうにもこうにも、ますます複雑になっていく。

私にとって、大嫌いになる人というのは、実は大好きな人なのだと思う。
特に特別な感情を抱いていない人には、大嫌い、という感情も生まれてこない。人間、相性があるものだから、「苦手な人」はいるし、私のことを苦手だと思っている人もいるはずなのだけど、ただ単に「大嫌いだ」と思う人は、たぶんいない。

大嫌いになることは、大好きになることと同じくらいエネルギーが必要だ。大嫌いになろうとか、大好きになろうとか、意識してやっているわけじゃなくて自然に出てくる感情なのだけど、出てきた感情に素直に向き合って心を費やすことは、たやすいことではないのだ。

そんなふうに、本当にむずかしくて苦しい思いもするけれど、でもやっぱり人が好き。そうやって心を通わせようとして複雑にからみあうことができるのは、人間だからこそ、と思うとやっぱり人間であることがおもしろくて、うれしくてしかたがないのだ。

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けさ一番に見たあじさい。ひらいている花があまりにやわらかでやさしくて・・・。雨にしっとり濡れて静かに咲いていた。

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