考えたこと、いろいろ

2011年12月 8日 (木)

「感動した」を伝えたい

感動すると、言葉が出なくなる。ほんとうに、どうにも、出なくなる。

きのう、友人と話をしていて実感した。

感動のみなもとは、友人が私にかけてくれた言葉である。心のなかでは感動の輪がパァーっと広がっていっているのに、どうしてもそれをすぐに言葉にすることができなくて、しばらく黙ってしまった。

++

「感動する」という言葉は、私にとって、なかなかうまく使いこなすことができない言葉だ。簡単には、そうそう使えない(と言いつつ、このブログでも何度も登場しているかもしれません、矛盾・・・)。

なぜなら、心のなかの思いを、十分に表せないような気がしてならないから。

確かに、「感動する」という言葉には、思いを伝える強い力があると思う。素敵な言葉だと思う。

でも、「感動する」が意味する範囲はあまりにも広い。ひとこと口にしたとしても、心のなかの思いがちっとも表現できていないようにも感じてしまい、同時に、相手にもそういう部分が伝わらない気がしてしまうのだ。

たとえば、同じ動詞の「眠る」という言葉なら、たいてい誰もが「目を閉じて睡眠をとっている」映像をすぐに思い浮かべることができるであろう。

でも、「感動する」という言葉の場合、「なんとなくそういう気持ちだろうな」ということはわかるけれど、100万人いれば100万通り、感動ってものはまったく違うはず。それに、一人のひとでもそのときによって感動の種類が違う・・・ということは、ある人が1日15回感動したらもう、15通り。そう考えると「感動する」という言葉が意味する思いというのは、もう想像できないくらい無限大の数になる。

もう少し言えばね、

水たまりに一滴のしずくがおちて輪が広がっていくように、心いっぱいに感動の輪が広がっている――その状態を、「感動した」とひとことで表現しきるのはやっぱり難しく、なんだか違うものになってしまうような気がするのだ。

たとえば、贈り物を中身が見えない包装紙でくるんで最後にぺたりと“For you”というシールを貼るみたいに、いろいろな気持ちからつくられた複雑な立体構造をした感動の思いを見えないようにくるんでしまって “感動” というシールを1枚貼ってみた――そんな感じ。相手に本当に見てほしいのは、“For you” というシールじゃなくて贈り物の中身。 それと同じで、“感動” というシールではなくて、それがどういうものなのか、心の奥に広がっている中身を伝えたいのです。

++

そういうわけで、なかなか簡単には使えない言葉、のように思っている私なのだけど、

それなのに。

きのうもそのまま、「・・・感動した!」としか言えなかったのでした。沈黙のあとに一生懸命絞り出した言葉が、結局それだったのでした。

でもやっぱりどうにかその感動の中身を伝えたいなぁと思った。そんな思いで次に出た言葉は、

「きょう、一番、感動した!」

(あぁ・・・表現力ないなぁ。ほとんど同じですね。別の言葉は出てこないものか)。

「でもさ、きょうまだあと数時間あるからね。もしかしたら、帰りの電車で隣にすわったサラリーマンが、もっと感動する話をしてくるかもしれないよ。一番にはなれないかも(笑)」

なんて、相手の冗談でかわされてしまったのでした!

う~ん・・・。どう言えばいいのかな。

「心が揺さぶられた」「心に響いた」「心を打たれた」とか・・・(ちょっとは具体的になったかな・・・いやいや、ただ言い換えただけですね)。

要するに、包装紙でくるんでシールを貼ってしまうんじゃなくて、中身がそのまま見えるようにすればいいんですよね。ということは、そのときの思いをそのまま言葉にすればいいのかな。 

えっと・・・。

「心がじんわりとあたたまって、自分が抱えているコンプレックスのようなものが融けていくように、とても気持ちが楽になったよ。ありがとう」 

という感じかな(きのうは言えなかったけれど)。

「感動した」という言葉とともに、こんなふうに、中身を表す言葉が添えられたらいいなと思う。

つい簡単に、「感動した」の4文字が書かれたシールを貼ってしまいそうになるけれど、やっぱり、中身を見てほしい。

ぐぐっと言葉につまるけれど、そこで少し頑張って、そのときそのままの思いを言葉にできたらいいなと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年11月 8日 (火)

さといもと人の心

きょうは立冬。実際、朝晩少し冷えていて、冬に近い空気の冷たさを感じました。いよいよ冬がやってくるのね。ええ、来るなら来いや。どんと来い。超・超・冷え症の私、秘密の対抗策だってたくさんあるし、負けませんよ。インフルエンザの予防接種だって、きょうしっかり済ませたんだ。

でもいまは、まだまだ秋。イチョウが色づくのが楽しみだし、落ち葉をバリバリ踏んで歩くのも楽しみだし、秋刀魚もやっぱりまだ食べていないし。

というわけで、秋の味覚その4。

ごろごろさといも。掘りたてのおいも。

Photo

表情がいろいろで、ほほえましいな。大きいのは私の握りこぶしぐらいある。小さいのは巨峰ひとつぶくらいの大きさかな(皮をむいたらなくなっちゃいそう)。

Photo_2
手羽先とさといもの煮ものをつくりました。

味しみしみ、おいもねっとりほこほこ。おいしくいただきました。

++

さといも、ごしごし洗って、ぬめりと闘いながら必死で皮をむいたわけだけど。
あんなに真っ黒、土だらけで毛むくじゃらの服をぬいだら、つるりと白く美しいお肌があらわれました。さといもの白は、品があって落ち着いた白色をしていました。

~ここからはちょっと話が飛躍するかもですが、まあいつものことで・・・~

昔、大切な友人にこんなようなことを言われたことがある。

「どんぐりの心ってとてもきれいだよね。どんぐりの、暗い汚い部分が見えないよ。私の心のなかは、嫉妬とかねたみとか、ぐちゃぐちゃどろどろしたものばかりになることがある。そういう自分の醜い部分にふれるたびに、胃がキューとしめつけられて苦しくなる」

これを聞いて、いや、そんなことない! と思った。

どんぐりの心も、ときに、自分では見たくない醜いものばかりで占められる。すごく嫌になる。苛立ちや嫉妬や、なにさ私だって! などという気持ち。

その時私は、たしか、よくわからないながらも友人にこんな言葉を返したかな。

「でも、心にそういう部分があるってことを自分が知っていて、見つめることができるってことが大事なのかもしれないね。そういう気持ちは、消そうと思ってもなかなか消せないものだから」

嫉妬っていうのは、それだけその人やものに愛があるからこそ生まれるもののような気がする。大事な気持ちといえるのかもしれない。また、人のことがうらやましいなら、その気持ちをバネに、目標を高くして追いつこうとすればいい。追い抜かしてやればいい。しっかり向き合った自分の醜さを、力に変えていけばいいんだと、思う。

そして私は、その友人をすごいと思った。自分に醜い部分があるなんてこと、人には言いたくないものなのに、それを私に打ち明けた。私はそれを聞いて、とても楽になったのだ。実際、私も苦しめられていた感情だったから。

「どんぐりと出会って、生きやすくなった」と友人は言ってくれたけど、こちらこそ、君と出会って生きやすくなったよ、って力強く言いたいのです。

++

ということを、そとみとなかみがあまりにも違うさといもを見ていて、考えたのでした。

いや、そうでもなくて、たまたまさといもの写真と、最近考えていたことが組み合わさった(ちっとも組み合わさっていないかもしれないけど、無理やり組み合わさっているように見せかけた)だけなのかもしれない。

(よくわからなくなったので最初の話に戻って)、あしたからまたさらに冷え込みが強まるみたいなので、本当に、気をつけてお過ごしくださいね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2011年10月20日 (木)

直球について

けさ。体調も気分もなんだかとてもすぐれず、駅のホームで思わず逆の方向にむかう電車に乗りたい衝動にかられた。きょうはこのまま、ずーっと電車に乗ってだれも知った人のいないところへ行ってしまいたい。電車の向かうまま、どこまでも遠くへ行ってしまいたい。

・・・でも、ホームに並ぶ大勢の人たちを見たら、やっぱりそんなことはできないと、われに返った。みんな頑張ってるんだ。いまから会社や学校へ向かうひとたちなんだ。

会社へ行っていつもの人たちの顔を見て言葉を交わしたら、徐々に元気を取り戻すことができた。人の力って、やっぱりすごいなぁ。

*

「どんぐりちゃんて、直球だね」と言われたことがある。

はいそうなんです。たぶん、その通りなのだと思います。

だって、運動音痴なわたし。変化球を投げるなんていう高度な技はもっていない。

このブログにも、そういうところが直にあらわれているのかもしれないと思う。うれしいことがあると、「聞いて聞いて!」「見て見て!」と見せびらかす。悲しいことがあると、その気分のままずらずらと書いてしまう(ほんとうにスミマセン)。

恋愛だってそう。私には、「恋の駆け引き」なんていうことはまったく無理。恋愛バイブルに書いてあるみたいにしようとも、出来たためしがない。
でも、自分では、自分が直球であることについて被害はないけれど、直球を投げられる相手はきついのかもしれないな、と反省する。直球しか投げられないのはきっと、自分が幼すぎる証拠なのだと思う。相手を思いやるのなら、変化球などにすべきこともあるのだと思う。

どうしてこんなに直球なんだ。そしてなぜ、相手から投げ返されてこないというのに、それでもまた直球を投げてしまうのだろう。

投げ返されることを期待して投げることは、せつないし、まちがっている。せめて受けとめられていることを信じたいけれど、それもやっぱり違う。

なにも期待しないで投げるのだ。自分が投げる、ただそれだけでいいじゃないか。相手のことを想って投げる、ただそれだけでうれしいじゃないか。(相手が嫌がるのに投げてはいけないけど)。100回に1回でも受けとめてくれれば小さくバンザイしよう。200回に1回でも投げ返してくれれば、大きな声で喜びを叫ぼう。

そのまえに、相手の球を、いつでもやさしく受けとめられる自分でいなきゃいけないな。そして(たいてい、直球はあまり好まれないものだと思うけど)、こんな私の直球を、イヤがらずにキャッチしてくれるひとに、いつか奇跡的に出会えたらいいな。グローブにスパーン! と気持ちよくおさまるように。バレーボールの強烈なスパイクを、回転レシーブで上げるように。テニスボールをやさしく打ち返してくれるように。

**

 『まっすぐについて』  いのししぶんた

ぼくの もくひょうは
まっすぐ はしること
それも ただの
「まっすぐ」じゃない

うんとまっすぐ
とにかくまっすぐ
すごくまっすぐ
だんぜんまっすぐ
とてもまっすぐ
しっかりまっすぐ
じつにまっすぐ
きっちりまっすぐ

なのだ
では ようい どん!

『のはらうたⅣ』 くどうなおことのはらのみんな 童話屋 より

**

まっすぐではいけないことも、ときにはある。変化球で言わなきゃいけないことも、たぶんある。そういうところは、ちょっとおとなにならなきゃな。直球であるという基本的な部分はたぶんこれからも、変わらないと思うけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年9月12日 (月)

月の光のように~お月見の夜に思うこと~

月がめちゃくちゃきれいだった。

帰り道、空にくっきりと浮かぶ月。

空が広くひらけた場所で思わず立ち止まり、天を仰いだ。

強くやさしく光っている月。
わけへだてなく、あらゆるひとやものを照らし、見守ってくれている月。

それなのにまるで、私だけのものであるかのようにも思えてしまうから不思議だ。

月を見上げていたら、ふと、井上ひさしさんのこんな言葉が頭に浮かんだ。

  むずかしいことをやさしく

  やさしいことをふかく

文章を書くときのことについての言葉だと思うけれど、私は生きていくうえで大事にしたい言葉として胸のなかにしまってある。

月を見ていたら、心の底にずんと沈んでいた重いものやむずかしいものが、月の明るい光に包まれてふわっと軽くなったような気がした。

そのあとは、こんなふうにつづきます。

  ふかいことをおもしろく

  おもしろいことをまじめに

  まじめなことをゆかいに

  ゆかいなことをいっそうゆかいに

私には、あまりに熱くなりすぎて、まわりが見えなくなってしまうよくない癖がある。
そういう状態のときには、物事の出発点がすべて自分になる。うまくいかなければ自分自身が苦しむし、何よりも、まわりの人たちをも苦しめることになる。

物事は、どんどんどんどん、むずかしくなっていく。

そうなっていくことにすら、気づくことができなくて。

――ということに、最近ようやく気づいた私。

自分を窮屈な部屋のなかに閉じこめておくのは、おしまいにしよう。
「むずかしいことを、やさしく」――凝り固まっていた心をやわらかく解きほぐし、やさしいものに変えていこう。こねくりまわして自分でますます複雑にしてきたむずかしい気持ちだけど、変えようとすることによって、それを乗り越えようとすることによっていっそうふかくなる――ことを信じたい。

ふかいなぁ。むずかしいなぁ(あっと、また「むずかしく」してはいけないね)。

今夜見た月のような存在になりたいな、と思う。
まわりの人を心地よい気持ちにさせられる人になりたいな、と思う。

静かで、やさしくて、あたたかい光でまわりのひとを包み込めるようになりたい。遠くでそっと、見守っていたい。自分本位のやさしさではなく、相手が最も心地よい気持ちになれることはなにかをまず考えたい。

そういうことを、井上ひさしさんの言葉のように、できるようになりたい。簡単なことではないけれど(あっ、やっぱりまた「むずかしく」・・・ではなく、おもしろく、まじめに、ゆかいに、そして、いっそうゆかいにできるようにね)。

ほら。うさぎたちが、ゆかいに、ぺったんぺったんおもちをついているよ!
大丈夫。お月さまは、いつでもそばにいて見守っていてくれるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年8月23日 (火)

美しく枯れゆくこと、そして新しい種をつけること

821_2
日曜日のメメ。

821_3
モモちゃん。なんてきれいなつぼみでしょう。妖精の冠みたい!

821_4
<身長 8月21日現在 メメ・・・106cm ママ・・・102cm モモちゃん・・・87cm>

1週間前(8月15日)と比べて メメ+8cm ママ±0cm モモちゃん+9cm。

メメが、ママを追い越しました! つぼみをつけてからの勢いがすごいなぁ。

それから、実は一番見てほしいのが、いまのママです↓

821_5
枯れゆくママ。少しずつ前のめりになっていく。この姿が、愛しくてたまらない。思わずほおずりしたくなるくらい。開花のときには飛び跳ねるような嬉しさでそれを受けとめたけど、いまのママに対しては、それとはまた違うあたたかい深い気持ちが自分のなかに沸き起こっていることに気づく。

下の2枚は、毎日通勤途中に出会うひまわりさんたち。道の端の花壇にずらりと、約80体ほどの子たちが元気に育っている。いまは、思い切り咲ききったあと、新しい種をつくる準備に入ったところだね。

Hima2
Hima1
うつむく姿はやはり、たまらなく、いとしい。

美しく、枯れゆく姿。

種から芽を出しぐんぐん育ち、一生をまっとうしたひまわりさんは、こうして新しい種を生み出すことに専念しているのだな。

++

こういう姿を見ていて、考える。

美しく、枯れゆくこと――これが、どんなに大事なことなのか。

本当は、ずっと咲いていたいにちがいない。もっともっと太陽の光を浴び、もっともっと空に向かってどこまでも伸びていきたいに、ちがいない。

だけど、枯れる時が、やってくる。枯れなきゃいけない時が、やってくる。生きていられる時間は、決められているのだ。

その時が来たら、自ら美しく枯れていく。なんと、潔いことでしょう。

「もっと咲いていたいよ。枯れたくないよ」なんて駄々をこねずに、潔く。

そして、新しい種をつくることに専念する。新しい命に、いまの自分の命を託すのだ。

*

ここ数カ月、どうにも気持ちの切り替えがうまくいかないことがあった。切り替えようとしても、ちっともうまくいかない――うまくいかないなんていうのは言いわけであって、切り替えようとしていなかっただけなのだ。ずるずるずるずる、甘えていただけなのだ。

「枯れないように、枯れないように」ということはよくあるけれど、逆に、枯れさせなきゃいけないことや思いというものもある。枯れなければ、新しい命を生み出すことはできない。生まれ変わらなきゃいけないときもある。

そこには、強い気持ちが必要だ。これまでの自分を全部ひっくり返さなきゃいけないかもしれない。みじめで、怖くて、悲しくて、くやしくて、後ろめたい思いだってしなきゃいけないかもしれない。

でも、生まれ変わるには、必要なことなのだ。枯れなくては、新しい種は作れない。

それなら、ぐずぐずみっともなく枯れるよりも、美しく、潔く、枯れてみたい。

ひまわりを見ていて、そんなことを思った。

枯れることも、大切。枯れることこそ、大切なのだということを。

それに気づいたとき、私の心のなかでも、何かが解き放たれた。
それと同時に、新しいキラキラしたものが、降って来たような気がした。

新しい種を作ろう。新しく、種をまこう。

これまで、ずっと手を伸ばしてもどうしても届かなかった高い空。でも、空を見上げながらぐんと伸びていこうとしたその気持ちは、忘れない。その気持ちを持ち続けながら、新しい芽を出し、新しい眼でまた空を見上げよう。周りを見渡してみよう。

そうすればきっと、新しい日々や新しい人、もの、こととの出会いがたくさんあるにちがいない。きっとまた、出会えると思うから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年8月19日 (金)

人と人とを結ぶ糸

きょうは、送別会があった。

久しぶりの大勢での飲み会。こういう場ではいつも、緊張してしまう。たくさんの人の前でのおしゃべりがちょっと得意ではなくて、いつもはじっこのほうの席を選んで座ってしまう。

でも、おいしい食事と飲み物を囲んでのにぎやかな雰囲気、決して嫌いではない。楽しいおしゃべりで場を盛り上げてくれる人たちのことが好き。笑いあう人たちの顔を見るのが好き。私も、その輪の一部分となって、思い切り笑わせてもらえることがとても嬉しい。きょうは、本当に、腹の底から、いっぱい笑ったなぁ。

ありがたいことに、この私にも、多くはないけれどさまざまな人との結びつきがある。会社の人間関係もそのひとつ。それは家族や友人ほど強いものではないけれど、でも毎日顔を合わせているわけだから、時間的にも大部分を占める重要な人間関係だ。

けれど、会社の人ととことん仲良くなれることはなかなかない。楽しく心地よく仕事をする仲であっても、お互い私生活にまで踏み込むところまではなかなかいかないものなのだ。仲良くなることも、ときには、あるのだけれど。

そういう、つかず離れずのような人間関係も、あってもいいのかなと思う。

私のわるいところもよいところも知っていてくれて、どこまでもつきあってくれる友達や家族との関係はもちろんほかとは代えられないほど大切なのだけど、

でも、ドライな人間関係も心地よいもので、必要なものなのかなとも私には思える。

いろいろなことを考えず、腹の底から笑う日があっていい。

私の小さな悩みや、家族のことや、翻訳者への夢のこと。そのほか私生活のことやメールアドレスなんかを知らない人たちとだからこそ、力を抜いて思う存分笑える、そういうこともある。あってもいいのだと、思う。

*

3月11日の地震が起こる前は、あまり、感じることがなかった――こちらに身内や親戚がいるわけでもなく、ほいっと都会にやって来た私だけど、特に、心細いとかそういうことを、感じたことがなかった。

けれど、あの地震の日を境に。都会にひとり、とりのこされたら、私はどこへ向かって歩いて行けばいいのだろうか。どこを、何をめざせばいいのだろうか。考えてもしかたがないけど、時々不安に押しつぶされそうになった。
でも、同じ敷地内には私の顔を知っていてくれる大家さんがいるし、幸運にも、都会生まれの親しい友人がいてくれるので、万が一の時にはそちらに向かって歩いていくことに決めてある。

細くても強い糸か、やわらかな毛糸か。それともたこ糸、綱引きみたいに太い綱? 
私と人とを結びつけてくれている人間関係の糸はほんとうに、さまざまだ。どれもこれも、私にはなくてはならない一本一本の糸。ピンと張ったり、ゆるんだり。結び目が出来たり、ほどけたり、時には見えなくなりそうになったり。いろいろあるけど、それでも切れずにつながっていてくれるそういう糸を、大切にしていかなければと思います。そういう糸があることを、糸の先に、ひとがいてくれるということに、感謝しなきゃなと思います(なんだかまとまらない話になってしまいました・・・)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年8月 5日 (金)

人生の魔法

『人は誰でも魔法を一つ持っている』

ある雑誌に、こんな言葉が紹介されていた。『魔女の宅急便』の原作者である角野栄子さんの言葉だ。

記事には、以下のようなことが書かれていた(内容を思い出して私がまとめたものです)。

「魔法というのは、『自分の好きなこと』。どれだけ繰り返しても飽きないくらいに好きなこと。空を飛んだり姿を消したりすることはできなくても、自分の好きなことで生きられればそれは魔法になる。その魔法に支えられていきいきと輝いて生きていける。その魔法は、早くに見つかる人もいるし、何年もかかる人もいるかもしれないけれど」

角野栄子さんの持っている魔法は、そう、『書くこと』だ。

「書くことがとにかく好き。でも、何かを伝えようとか意味のあることを書こうとはしない。自分のなかからふと飛び出してくるものや目に浮かんだ風景を言葉にしているような感じで書いている。そうやって出来上がった本のなかの世界を楽しんでいただけたら嬉しい」――そんなことが書かれていた。

『書くこと』が魔法・・・

私の心の中で何かがはじけた。

あぁ、私もだ! 私もおんなじ!!

私が翻訳を勉強したいと思ったきっかけはずばり、「書くこと」だ。書きたい。日本語を書きたい。書くことが好き。翻訳者への道のりはそこから始まった。

まだ本物の翻訳者になったわけではないから、しっかりと魔法にかかっている状態とは言えない。いまはまだ、魔法にかかりたい対象のものを見つけて、かかることができるようもがいているにすぎない。

大学を卒業してからいくつかの仕事を経験した(はずかしくていくつなのかは言えない)。どれもこれも、今度こそは魔法にかかりたいと思って必死でやっていたけど、残念ながらかかりきることができなかった。

今度こその今度こそは絶対に。翻訳への一歩は、そうやって踏み出された。

*

「俺、マジでサッカーすきなんすよ」

けさ、じっくりと見る余裕はないが朝の習慣でつけているテレビから、私の耳に飛び込んできた言葉。

昨日亡くなった松田直樹選手の言葉だ。

画面には、松田選手の笑顔。

それを見た瞬間に、思った。

――この人は、しっかりと魔法にかかっている。魔法の世界に入り込んでいる。

魔法にかかっている人の眼差しはものすごく強い。

ファンであるわけではなくサッカーにも詳しくないけれど、このひと言と、ほんの少しだけど松田選手が作ってきた足跡やサッカーに対する思いを知り、この人は心からサッカーを愛しているのだ、ということだけはとてもよくわかった。

「マジで、もっとサッカーやりたいです」

とても遠い存在である私が言うのも、とは思うけれど、本当に、その人の分まで生きたい、生きなければといま強く思う。

ようやく見つけたたったひとつの魔法に、今度こそ、しっかりとかかることができるように。「マジで翻訳好きなんです。マジで、もっと翻訳やりたいです」。心からそう言えるように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年7月23日 (土)

人を元気にする力(前回のつづき)~どんぐりの場合~

中学時代、私はバレーボール部に所属していた。

運動があまり得意ではない私(なのに無謀にもバレー部を選んだのでした・・・)、エースで活躍するような選手ではもちろんなかった。試合では、自分たちのチームがかなり点差を広げてリードした状態で、「いまなら、どんぐりを少しだけ出させてやっても被害はないだろう」と顧問の先生が判断したときにはじめて出ることができた。

顧問の先生は、市内の大会ではどんなチームでも(もちろん、私たちの代も)必ず優勝に導く、とても技術が高くて熱意のあるお方だった。

その分、練習は厳しかった。ランニング、ダッシュ、腹筋・背筋・腕立てメニュー数セットなどをこなしたあと、コートの中を全力で動き回る練習によってビシバシ鍛えられる。いま考えると、よくあんなことやっていたなぁと思うくらい激しいものだった。いつ逃げ出してもおかしくないくらいだった。

でも、バレーは好きだった。下手くそだけど、好きだった。うまくなりたくて、とにかく練習に励んだ。朝と放課後の部活動時間だけでなく、昼休みもバレー。土曜日も、場合によっては日曜日も、先生が練習試合を組んでくだされば、部活に出る。中学校生活の中心がバレーだった、といえるくらいかもしれない。

*

前回の話に戻るけれど、なでしこJAPANは見事世界一に輝いた。最高だ。それ以上のことはない。やはり、スポーツの世界で目標とすることとは、頂点に立つことだ。優勝、金メダル――それしかない。最近の学校教育では、順位をつけるのはよくないことという考え方もあって、運動会のかけっこで順位をつけないというやり方も聞いたことがあるけれど、そうではないんじゃないかと思う。一番になるために努力することや、一番になったからこそ得られるものが必ずあると思うから。

だから私も、自分たちのチームが一番になるために必死で頑張った。といっても私はほとんど試合に出ないから、アタックを決めたりサービスエースをとったりなど、直接には点数をかせぐことはできない。非レギュラーチームの仲間と一緒に、レギュラーチームが少しでも強くなるように練習を頑張ったりベンチから応援したりすることはできるけれど、「直接」優勝に結び付かせるようなことは、どうしても、できなかったのである。

*

3年生の夏に部活を引退する時、後輩と先生からのメッセージがぎっしり書かれた色紙をもらった。私宛てに、みんなはどんなメッセージを贈ってくれたのだろう。「先輩のスパイク、かっこよかったです」「先輩のミラクルサーブには感動しました」・・・絶対に、そんなことが書いてあるはずがない。みんな、私に対して書くことが見つからず、困ったんじゃないだろうか・・・そんなことを思って、色紙に目を落とすと、そこに書いてあったこととは。

「先輩の、努力する姿を見習いたいと思います」「いつも必死で頑張る先輩の姿が印象的でした」

そして、厳しくもあたたかい、私の大好きな顧問の先生からは、

「人一倍練習熱心。常に努力を怠らない選手だった。体力に恵まれていたらきっと素晴らしい選手になっていたと思う。・・・努力する姿は美しい。努力した者こそ、成功者となれる。それはスポーツの世界に限ったことではない。どんぐりを見ていると、必ず自分の夢や目標を実現させるのだと思うよ。頑張れ!」

と(色紙がそばにあるわけではないのに、好きな文章で何度も繰り返し読んだからとてもよく覚えているのです。ほぼ、これで間違いないはず)。

びっくりした。とにかくいつも必死で頑張っていたけど、周りの人たちが、こんなふうに私を見ていてくれたなんて(まあ、チーム全員頑張っていたけど、私は下手くそだから特に頑張っているように見えたということなのかもしれませんが)。

もちろん、もっともよいのは一番になって輝くこと。それが一番、人を勇気づける。感動させる。誰をも元気にさせる。

でも、どう頑張ってもそれが出来なかった私みたいなヤツの場合でも、必死でやっていれば結果的に何か伝わるものがあったのだと・・・そんな、大発見をしたのでした。前回の記事を書いていて、なでしこJAPANのことを考えていて、スポーツをしていたころの熱い思いが、ふっとよみがえってきたのでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2011年7月19日 (火)

人を元気にする力

朝の電車で、いつものようにサラリーマンが新聞を読んでいる。気づかれないように、そっと記事を見つめ、私もその新聞に目を通す。

大きく出ているのはやはり、私たちに希望を与えてくれたなでしこJAPAN世界一の記事。

本当に、すごいですよねとそのサラリーマンに思わず話しかけたくなったが、そう言わなくともきっと同じ気持ち。日本中の、世界中のたくさんの人たちが、彼女たちの姿に勇気づけられたに違いないのだ。

スポーツ選手や芸能人をはじめ表舞台に立つ方々は、競技場やテレビやコンサート会場やそのほかいろいろな場所で活動するなか、自分が輝くことで日本の人々を元気にしたいというようなことをお話されているのをよく耳にする。

私たちは、彼らまたは彼女らが、一発の勝負を見事に勝ち抜いたり華やかなステージで自らが持っているものを披露している姿を見て、喜んだり、感動したり、勇気づけられたりする。

でも私たちが見ているのは、彼らの人生のほんのわずかな一部分。それまでに、一人ひとりにはどれだけの人生の物語があったのだろう。そういうことがあるからこそ、あのような粘り強さとともに頂点を極めることができたのだろうし、人びとを感動させることができるのだ。

「日本の人たちを元気にしたい」という言葉に込められた強い思いを、私はもっともっと感じて、感謝をしていきたいなと思う。

そんなことを考えていて・・・。

たとえば、今の私には、日本中(または世界中)の人びとの目にさらされる場所で、「私はこうして日本を元気にします」と言えるような活動は、どう考えてもできない。

だからせめて、スケールがとても小さいけれど自分の身のまわりにいる人たちを少しでも元気に出来るような存在になれたらと思う。いつも周りの人たちからいただいてばかりの自分だから、今こそ私も! です。

人に何かを与えたい――これまでなかなかそういうことを考えつかなかった。私はそれほどのことができるような人ではないということは分かっているし、そういう考えを持つことで、相手は何も感じていないのに一方的に自分のほうだけが与えたような気になってしまうのではないかという恐怖感があったから。(こうやって思ってしまうのは、きっとただの臆病者なんだ・・・)。

でもやっぱり、人に何かを与える(やっぱりこの言い方は私には向かないかな・・・うーん)、どこかのだれか一人にでも、私という存在から何かを感じてもらえるような人でありたいなと思う。それが、ひとりきりではなく人と一緒に生きる意味なのかな、と思う。

私が人を元気にできることって、一体何なのだろう。

・・・おや! 気づけばもう日付が変わりそうな時間です。寝なくては。

ごちゃごちゃ書いていてよくわからなくなってきたけれど、またつづきを書けたらいいなと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2011年7月 3日 (日)

いま、小さな幸せを

数ヶ月前から何度も何度も繰り返し聴いている曲がある。音楽でも食べ物でもなんでも、一度気に入ると繰り返しそればかりなのだ。『小さな幸せ』レミオロメン。

♪ もしも大きな幸せの中で
  失くしてしまった日々の愛しい香り
  何度も何度でも過去は振り返れるけれど
  過去は一度も振り向いてくれない

  化石みたいな夢でも まだ微かに温かい訳は
  使い古された言葉 目の前の今しかないから

3月11日の震災や、そのほか日々のさまざまな出来事によって不安定になってしまう私の心に、すとんと落ちた歌。

目の前の今しかない――本当に、そう思う。そう思うようになった。
地震が起こった直後は、ただ道を歩いているだけでも、ただ何事もない日常の風景を眺めているだけでも、もしかしたら次の瞬間には、今見ているこの風景が一瞬のうちに変わってしまうのではないかという不安によく襲われた。だから、一歩一歩、地面をふみしめるように歩いてみたり、今見えるこの風景を目に焼き付けておかなきゃと思ったりした。道端に咲く小さなスミレや名前も知らない草花が、たまらなく愛しく思えた。

 小さな花のような幸せ
  色とりどりの小さな幸せを
  咲かせるために生きていきたいな

小さな小さな幸せ。いっぱい咲かせていきたいな。まわりの小さなことやもの、そして、人とつながりながら…。
家族や大切な人たちとは、離れているし、何か用事や伝えたいことがないかぎりメールや電話などもしない(たぶん、現代人として、携帯電話の画面を見る頻度がとても低いほうだと思う)。でも、連絡しなくても、絶対にいつまでもつながっていられると思える人が、ごくわずかだけどいる。自分から相手への一方通行かもしれないけど、それでも、大切だと思える人がいることがとても幸せです。

*

私にとっての小さな幸せ、大きく育っています。私の大事な子、(左から)メメ、ママ、モモちゃん

小さな種から、小さな芽が出て、ほら、こーんなに大きくなったよ!

73

<身長 7月3日現在>メメ…47cm、ママ…55cm、モモちゃん…41cm

よく伸びてるね。私も負けずに頑張ろう!! 6月は自分を甘やかし過ぎてしまったのでその分7月はいろいろ取り戻すんだ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|