2012年8月 2日 (木)

孤独であること

‐‐‐

孤独はよいものです。自分自身と平和のうちに生き、何かなすべきしっかりとしたことがあれば。
 『ゲーテ格言集』(高橋健二編訳) 

東京新聞 2012. 8. 2 けさのことば(岡井 隆)より

‐‐‐

このことばに、『孤独のよさを噛みしめるように言っている。自分自身と争うことなく平和な状態をつくりだすことの大切さ。何か成すべきこと」を持っている必要性』 と、岡井隆さんの解説が加えられている。

『孤独』ということばは、プラスよりもマイナスのイメージをもつものとして捉えられることが多いのかなぁ。

私は、プラスにもマイナスにも思える。けれど、孤独は、なくてはならないものだと思う。必要なものだと思う。そもそも、生きている以上は常につきまとうものだと思う。

孤独を思いきり味わいたいときもあるし、孤独からどうにかして逃れたいと思うときもある。

でも、孤独をたのしむことは好きだな。それはまさに、上にある「自分自身と平和のうちに生き」、「何かなすべきしっかりしたこと」があるという条件つきなのだけど。

けさ、このことばを読んだとき、詩がみっつ、頭に浮かんだ。

  ひとりぼっち     谷川俊太郎 

だれも知らない道を通って
だれも知らない野原にくれば
太陽だけがおれの友だち
そうだおれにはおれしかいない
おれはすてきなひとりぼっち

きみの忘れた地図をたどって
きみの忘れた港にくれば
アンドロメダが青く輝く
そうだおれにはおれしかいない
おれはすてきなひとりぼっち

みんな知ってる空を眺めて
みんな知ってる歌をうたう
だけどおれにはおれしかいない
そうだおれにはおれしかいない
おれはすてきなひとりぼっち

この『ひとりぼっち』は、ひとりで散歩しているとき、まるでメロディーが流れるように頭のなかに浮かんでくる大好きな詩です。

谷川俊太郎さんからもう一編。

* *

  ひとり  谷川俊太郎

ぼくはひとりでいるのがすき。

せんせいは ともだちと あそびなさいと いうけれど、

ともだちは ぼくをいじめる。

おとうさんは おとこのこなら つよくなれと いうけれど、

ぼくは けんかなんか したくない。

おかあさんは みんなと なかよくしろと いうけれど、

ぼくはぼくだ みんなとちがう。

これは ぼくのて。

これはぼくのかお、
なまえはよしお。

あのこも よしお
でも おんなじなのは なまえだけ。

ぼくという にんげんは
ひとりしかいない。

ひとりでも ぼくは ひとりぼっちじゃない。

ぼくは とんぼと ともだち、

かぜと ともだち、
そらと ともだち、
ほしと ともだち、

うらしまたろうも ぼくの ともだち、

ぼくの みるゆめを だれも しらない。

みんなの じゃまを しなければ、
ひとりで いたって いいじゃないか。

ぼくを ほっといて くれ!

* *

二編とも、『谷川俊太郎 詩集 いしっころ』 岩崎書店 より。

学校って、いま思えば、ほんとうにシビアな場所だなと思う。常に友達と仲良くして、にぎやかにしていなきゃいけなかったのかなぁ。今日は外でドッチボールをするんじゃなくて、ひとりで静かに本を読みたいなぁ、・・・そんなふうに思っている子はきっといたんじゃないかなぁ。

でもきっと、ひとりぼっちでいると、「あの子は友達がいなくてさみしい子なんだ」ってみられちゃうし、先生からは「どうしてみんなと一緒に遊べないの?」って、注意されちゃうかもしれないからね。

みんなみんな仲良しさんになることがいいことで、ひとりでいるのはよくないこと。そういう考え方に知らぬ間に染まってしまう場所だったのかもしれない・・・なんて思ってしまう。
思い出せば、自分は大勢でわいわいするようなタイプではなかったし、常にだれかと一緒に行動したいとは思わなかったけれど、無意識に、ひとりにはなりたくないと思っていた気がする。だれもがどこかの仲良しグループに所属していて、そこから外れないように必死だったのかもなぁ。「孤独」なヤツ、だと思われないように、ですね。

もう一編は、茨木のり子さん。

* * *

 一人は賑やか  茨木のり子

一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も

 (中略)

一人でいるのは賑やかだ
誓って負けおしみなんかじゃない

一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい

おおぜい寄ったなら
だ だ だ だっと 堕落だな

恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ

『おんなのことば』茨木のり子 童話屋 より

* * *

そう、そうなのだ。一人はとても賑やかなものなのだ!

一人で賑やかにしていられるのなら、もうなにもこわくないな、きっと。

孤独がこわくてたまらないときや、逃れたいと思うときというのは、『自分自身と平和のうちに生き、何かなすべきしっかりしたことがある』 のとは逆で、自分自身と争い疲れ果て、なすべきことがわからず、ただだれかに寄りかかりたいと思っているときなのだろう。

だれもが孤独。友達が多い人も少ない人も、話し上手な人も話しべたな人も、生きている以上、だれもが孤独なのだと思う。

他人とまったく同じ気持ちになることはできないから。いくら、共感してるとか、その気持ちわかるよ、とか言っても、ぴったり同じ気持ちになることはできない。そういう人がいてくれることによって、孤独であると思う気持ちがいくらか和らぐかもしれないが、やっぱり孤独は孤独なのだ。自分で向き合っていくしかない。

だからこそ、孤独であることを受けとめて、たのしんでゆけたらと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年10月20日 (木)

直球について

けさ。体調も気分もなんだかとてもすぐれず、駅のホームで思わず逆の方向にむかう電車に乗りたい衝動にかられた。きょうはこのまま、ずーっと電車に乗ってだれも知った人のいないところへ行ってしまいたい。電車の向かうまま、どこまでも遠くへ行ってしまいたい。

・・・でも、ホームに並ぶ大勢の人たちを見たら、やっぱりそんなことはできないと、われに返った。みんな頑張ってるんだ。いまから会社や学校へ向かうひとたちなんだ。

会社へ行っていつもの人たちの顔を見て言葉を交わしたら、徐々に元気を取り戻すことができた。人の力って、やっぱりすごいなぁ。

*

「どんぐりちゃんて、直球だね」と言われたことがある。

はいそうなんです。たぶん、その通りなのだと思います。

だって、運動音痴なわたし。変化球を投げるなんていう高度な技はもっていない。

このブログにも、そういうところが直にあらわれているのかもしれないと思う。うれしいことがあると、「聞いて聞いて!」「見て見て!」と見せびらかす。悲しいことがあると、その気分のままずらずらと書いてしまう(ほんとうにスミマセン)。

恋愛だってそう。私には、「恋の駆け引き」なんていうことはまったく無理。恋愛バイブルに書いてあるみたいにしようとも、出来たためしがない。
でも、自分では、自分が直球であることについて被害はないけれど、直球を投げられる相手はきついのかもしれないな、と反省する。直球しか投げられないのはきっと、自分が幼すぎる証拠なのだと思う。相手を思いやるのなら、変化球などにすべきこともあるのだと思う。

どうしてこんなに直球なんだ。そしてなぜ、相手から投げ返されてこないというのに、それでもまた直球を投げてしまうのだろう。

投げ返されることを期待して投げることは、せつないし、まちがっている。せめて受けとめられていることを信じたいけれど、それもやっぱり違う。

なにも期待しないで投げるのだ。自分が投げる、ただそれだけでいいじゃないか。相手のことを想って投げる、ただそれだけでうれしいじゃないか。(相手が嫌がるのに投げてはいけないけど)。100回に1回でも受けとめてくれれば小さくバンザイしよう。200回に1回でも投げ返してくれれば、大きな声で喜びを叫ぼう。

そのまえに、相手の球を、いつでもやさしく受けとめられる自分でいなきゃいけないな。そして(たいてい、直球はあまり好まれないものだと思うけど)、こんな私の直球を、イヤがらずにキャッチしてくれるひとに、いつか奇跡的に出会えたらいいな。グローブにスパーン! と気持ちよくおさまるように。バレーボールの強烈なスパイクを、回転レシーブで上げるように。テニスボールをやさしく打ち返してくれるように。

**

 『まっすぐについて』  いのししぶんた

ぼくの もくひょうは
まっすぐ はしること
それも ただの
「まっすぐ」じゃない

うんとまっすぐ
とにかくまっすぐ
すごくまっすぐ
だんぜんまっすぐ
とてもまっすぐ
しっかりまっすぐ
じつにまっすぐ
きっちりまっすぐ

なのだ
では ようい どん!

『のはらうたⅣ』 くどうなおことのはらのみんな 童話屋 より

**

まっすぐではいけないことも、ときにはある。変化球で言わなきゃいけないことも、たぶんある。そういうところは、ちょっとおとなにならなきゃな。直球であるという基本的な部分はたぶんこれからも、変わらないと思うけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年8月29日 (月)

夏が過ぎ去るまえに

つくつくぼうしの声はまだ聞こえないけれど、徐々に、夏が遠ざかっている気がする。

つい最近まで、午後7時にまだ昼のような明るさだった帰り道が、いまではもうすっかり暗闇だ。
虫の音も、はっきりと聞こえるようになってきた。

あまりにも暑い日と秋のような涼しい日がまだらにあらわれた今年の奇妙な夏も、まもなく終わろうとしている。

過ぎ去ってしまうのだと思うと、あんなに暑くて苦しかった日々もさみしくさえ感じられてしまう。
夏がまだここにいるうちに、もっと君を感じておかなければ、なんて。

**

  あけっぱなした窓が青空だ

  見上げればこんなに広い空がある

空。夏にしか見られないこのどこまでも深いブルーを、白い雲が似合う青を、そしてどこまでもつづく広さを、もっともっと感じたい。

この俳句の作者は、住宅顕信(すみたく・けんしん)。彼は、骨髄性白血病にかかり、25歳の若さで亡くなった。創句期間は死の直前までの2年8カ月。
病気が発覚し、離婚。誕生したばかりの長男を引き取り、病室で育てたという。

その冷たい病室から、彼は一体どんな思いで、空を見上げていたのだろう。

**

  若さとはこんなに淋しい春なのか

  淋しさは夜の電話の黒い光沢

  両手に星をつかみたい子のバンザイ

  抱きあげてやれない子の高さに坐る

この本を広げるたびに、あまりにも、痛々しくて、本を閉じてしまいたくなる。

彼が抱えていた淋しさは、推し測ることができない。私が彼の気持ちになることは決してできないし、浅い部分しか感じ取ることができないのかもしれないけれど、それでも光を見出そうとする彼の俳句には、心を打たれる。

  許されたシャワーが朝の虹となる

  お茶をついでもらう私がいっぱいになる

  地をはっても生きていたいみのむし

すべて、『ずぶぬれて犬ころ』俳句-住宅顕信 版画-松林 誠(中央公論新社)より

++

あともう少し、夏を、夏の広がる空の下を、熱い気持ちで駆け抜けたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年5月31日 (火)

気持ちの居場所

心が不安定な状態というのは、自分の気持ちがきちんとおさまる場所がないってことなのかなぁと思う。

宙に浮いたまま、どこへも行けずにずっとさまよい続けているような――帰る場所が、わからない。見つからないのだ。

でも、いまはわからなくても、いつか、そのうちに、必ずわかる。いそがなくたっていいのだ。いまは、そういう気持ちも大事にして、ゆっくりあるいていけばいい。

***

 南の絵本   岸田衿子

いそがなくたっていいんだよ
オリイブ畑の 一ぽん一ぽんの
オリイブの木が そう云っている
汽車に乗りおくれたら
ジプシイの横穴に 眠ってもいい
兎にも 馬にもなれなかったので
ろばは村に残って 荷物をはこんでいる

ゆっくり歩いて行けば
明日には間に合わなくても
来世の村に辿りつくだろう
葉書を出し忘れたら 歩いて届けてもいい
走っても 走っても オリイブ畑は
つきないのだから
いそがなくてもいいんだよ
種をまく人のあるく速度で
あるいていけばいい

『いそがなくてもいいんだよ』 岸田衿子 童話屋 より

***

さまよっているあいだは、そういう不安定な心が、涙や苛立ちや焦りなんかに姿を変えることもあるかもしれない。でも、きっとそれも必要な道のり。そうしていつか、「よく来たね。きみ、ここにいていいよ」と言ってくれるような、気持ちがすっぽりおさまるところ、安心できるところが見つかるはず。

「いそがなくたっていいんだよ」 オリイブ畑の木が、見守っていてくれるのだ。そして、「オリイブ畑は、つきない」のだ。

重たい荷物は背負わずに。ただ自分のはだかの気持ちだけで、ゆっくり、ゆっくり、あるいてみよう。

きょうの大発見。階段をのぼるとき、スキップ、とまではいかないけれど、つま先で弾むようにのぼると、気持ちがとっても弾みます♪ 楽しくってしかたなくなります。・・・ただそれだけです。職場で、駅の階段で、アパートの階段でためしてみましたが、あまりの効果にびっくりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年5月25日 (水)

私のかわいい子どもたちへ

なにかひとつの物事について考えすぎてしまうときは、あまり調子がよくないのだと思う。考えるほどに思考が自分勝手になり、それに気づいてまたまた自己嫌悪に・・・。

いけない、いけない! リセットだ。こんなとき、私の心に効くものって、やっぱり詩なのです。

***

  ふしぎ   金子みすゞ

わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの実たべている、
かいこが白くなることが。

わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

(後略)

『わたしと小鳥とすずと』金子みすゞ JULA出版局

***

わたしもふしぎでたまらない。おとといよりもきのう、きのうよりもきょうと、植物たちが背を伸ばし、いつのまにかその表情を変えていることが。

Image252

そうだ、この子たちになまえをつけてやろう。

芽、だから、メメちゃんとかそんな感じがいいなぁ・・・。

ようし、決めたっ!

ほかのふたりより、一足先に生まれた真ん中の子は、「ママ」。
その次にふたばを広げた左の子は、「メメ」。
最後にのんびり出てきた右の子は、「モモちゃん」。

・・・なーんて、おかしな私ですが、出てきてくれたこの子たちが、かわいくてしかたないのです。しかし、なかなかうまく植物を育てられないこの私。いつのまにかこの話をしなくなったら・・・なんてことは考えず、絶対、花になるまでしっかり育ててやらなくては。

==

以前、うずまきクッキーパワーという記事にコメントをくださったかたへ。姉がとても喜んでおりました。感謝しております。ほんのひとことですが、姉からの伝言を預かりましたので、どんぐりの姉(代筆どんぐり)でコメントを入れさせていただきました。またのぞいてみてくださいね。ありがとうございました!

(実家はパソコンをほとんど使わず、ブログを見る機会もあまりないようだったので、うずまきクッキーの記事とコメントを印刷して姉に郵送したのでした)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年5月24日 (火)

うまれたての私へ

今朝の私は、なんだかよくわからないけれど、うまれたての気分だった。

***

 うまれたて    あげはゆりこ

おひさまの あいずで
めをさましました
さなぎの ゆりかごから とびだし
ゆっくり はねを のばしました
(いまだ!)
わたしは かぜのふねに のりました
だいすきな だれかに
であうために
   ・・・・・
あたらしい「きょう」です
あたらしい「わたし」です

『のはらうた Ⅳ』 くどうなおこ 童話屋より

***

Image250

3日前(両端のふたりは、2日前)にうまれた植物の芽たち。今日は朝から雨に打たれていた。この前の写真と様子が変わらないような気もするけど、いやいや全然違うのだな。ずいぶんと、のびのび、ぐーんと腕を広げてる。

この子たちを見ながら私もぐーんとのびをして、新しい空気を吸い込んだ。あたらしい「きょう」だ! あたらしい「わたし」だと!

*

最近なかなか気分が晴れなかったのは、単に、ある物事に落ち込んでいた、というだけのことではなかったのだと、今日、気づいた。
人に、ぶつかり切れていなかったこと。自分の考えていることを、伝え切れていなかったこと。そのせいだ。

人に、自分の思いを伝えるのはほんとうに難しい。単なる連絡事項ならともかく、「気持ち」というものは、いったいどういう言葉にして、どういう手段を使って伝えればいいのか。(・・・まあ実際は、そんなことごちゃごちゃ考えずに、直球で行ってしまう私なのですが)。

相手が自分にとって大切なひとであれば、なおさらだ。それに、大切なひとであればこそ、心の奥底の感情までも伝えたい、と思う。感謝も喜びも、苦しみも怒りも、悔しさも――。
ぶつかろうとすることは、こわいし勇気がいる。もしかしたら、うまくいっていた相手との関係性だって壊れてしまうかもしれない。嫌われてしまうかもしれない。

それでも、伝えたいことがある。心を隠しながら、にこにこ顔をつくり続けるなんて器用なこと、できっこない。伝えたことで関係が悪化しても、それはそれでしかたがない。でももしも、それでも相手が私とつながっていてもいいと言ってくれるのなら、これからもまた、叱られても軽蔑されてもいいから、思いを伝えつづけるだろう。

なんて・・・本当に、どうにもこうにも、相手に迷惑だというのに直球で行ってしまうところ、まだまだ修行が足りないのかもしれません。

というわけで、周りのひとたちにぶちあたりつつ(かなり迷惑)、あたらしい「きょう」を迎え、あたらしい「わたし」に、日々うまれかわっている私なのでした。なんだか本当によくわからないけれど、あしたもやっぱりあたらしい「きょう」、あたらしい「わたし」に出会えるかと思うと、わくわくするのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年5月22日 (日)

芽がでた! ワクワク。

芽が出た!

Image245

一週間ほど前にまいたタネたち。

わーい。よく、出てきてくれました。お誕生日、おめでとう。真ん中の子は、5月21日。両端のふたりは、5月22日生まれです。元気に、育ててやらなくちゃ!

タネは、友人のあわからわけてもらったもの。彼女は、バラをはじめ植物を育てることがとても上手で、私にもタネや苗をよくおすそわけしてくれる。チューリップ、フウセンカズラ、朝顔、いちごやミントの苗。彼女のおうちでは見事に花を咲かせ、ぐんぐん成長して年を越すのに、私のほうは、ちっともうまくいかない。

そんな私に、これなら大丈夫でしょ、とくれたのがこの花のタネ。よかった。ひとまず芽が出たよ!

***

  ワクワク   谷川俊太郎

タネまけば芽が出るさ
芽が出れば花が咲く
花が咲きゃ実がなるよ
実がなればタネになる
ワクワク ワクワク

腹がへりゃ飯を食う
飯を食や眠くなる
昼寝すりゃ夢をみる
夢をみりゃ目がさめる
ワクワク ワクワク

腹が立ちゃけんかする
けんかすりゃなぐられる
なぐられりゃけっとばす
けっとばしゃすっとする
ワクワク ワクワク

(後略)

『うつむく青年』 谷川俊太郎 サンリオ より

*** 

うんうん、きっと、花は咲く! ワクワクしながら、育てていこう。

きっと、毎日のいろいろは全部、ワクワクなんだなぁって思う。つぎつぎに起こるそんなワクワク ワクワク を、日々感じていたいなぁ。

Image241_2

早くも花をつけたアジサイを発見! ワクワク。

Image243

アジサイの近くには、見事なバラが。ワクワク!

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年5月10日 (火)

地面のことり

上を向こう。無理にでも、上を向こう――そう思っても、どうしてもうまくいかないことがある。そんなときは逆らわずに下を向く。じっと地面を見つめてみる。

最近、天気のよい日の昼休みには、お弁当を持って公園に行き時間を過ごす。職場近くのその公園は、広すぎず狭すぎず、わたしと同じようにベンチでお昼をとるサラリーマンや読書をする人、鳩にパンのカケラをまくひと、広場でゲートボールを楽しむひとたちなどでにぎわうアットホームな感じの公園だ。桜の季節はピンク色、いまは緑の木々が美しい。

わたしの足もと近くに、すずめがやってきた。ちょこちょこ跳ねて、とってもかわいらしい。茶色の素朴な感じの着物も、お顔の模様も大好き。自然に顔がほころび、その子たちをずっと目で追いかけていた。

***

 ことり   まどみちお

そらの
しずく?

うたの
つぼみ?

目でなら
さわっても いい?

『まどみちお詩集 ハルキ文庫』より

***

ほんとうに、目でそっとそっと、大事にふれていたい気持ち。

==

五月に咲くハナミズキ。空に向かって顔を上げ、ほほ笑みながら咲いている。毎朝その花を見上げては、きょうも頑張ろうとわたしも上を向き元気を出すようにしていた。

でももうその花も終わりかけ。すこしさみしく感じていたら、そのすぐそばに、アジサイらしきものを見つけた。大きめの葉っぱのあいだから、花のもととなる、つぶつぶの集まった小さなあたまみたいなのが、いくつも出現しはじめていた。

うぁ、うれしいな! これからは毎朝、この子の成長ぶりを見ながら歩くことにしようっと!

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年5月 1日 (日)

わたげをとばす その2

目の前にふとあらわれた、小さな小さなパラシュート。

きのう道を歩いていたら、ひとり風に乗って運ばれていくたんぽぽのわたげに出会った。
あまりにもか細く、油断すると消え去ってしまうくらいはかなげで、本当に見ているのかわからないような気持ちにさえなった。思わず立ち止まって、一生懸命、見つめた。

幼いころ、わたげつきのたんぽぽを摘み取って自分でふーっとやってみたことはあるけれど、こんなふうに道端で偶然、飛んでいるわたげに出会えたのは生まれて初めてかもしれない。

最近、たんぽぽのわたげに思いを馳せていたから、その願いが叶って出会えたのかもしれない。それとも、いつだってわたげたちはいっぱい飛んでいたのかもしれないけれど、わたしが見ようとしていなかっただけかもしれない。

***

 あいたくて

だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた――
そんな気がするのだけど

それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのか――
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている

(後略)

『工藤直子詩集』 ハルキ文庫 より

***

4月26日、ひとつ前の記事と同じ、工藤直子さんの詩。やっぱり、「あいたくて」なんだよね。

わたしたちは、生きているあいだじゅう、こうやって、あいたいと思うだれかを、なにかを、探し求めているのかもしれない。わたげは、「あいたくて あいたくて」という気持ちを持っていく場所を探し求めながら飛んでいるのかもしれない。

ひとつのたんぽぽは、たくさんの「あいたくて」のわたげを持っている。

同じように、わたしも、たくさんの「あいたくて」のわたげを持っている。

「それが だれなのか なんなのか あえるのはいつなのか」わからないわたげもたくさんある。生きているあいだずっと、そういう種は次から次へと生み出されるから、なくなることはないはずなのだ。

*

あいたいと思えるひとがいるのは、ほんとうに素敵なことだ。

あいたいという気持ち、ただそれだけで嬉しくてしかたなくなる。ときには、切なくて、苦しくてしかたくなる。でも、そういう気持ちを持てるひとがいるということ、なんてしあわせなのだろう。あいたいと思わせてくれて、本当にありがとう。

あいたいと思えるものがあるのは、ほんとうに素晴らしいことだ。

あいたいという気持ち、ただそれだけで頑張れる。ときには、あまりにも道のりが険しいことに気づいて苦しくなることもあるけれど。でも、そういう気持ちを持てるものがあるということ、なんてしあわせなのだろう。(わたげを飛ばし続けている、翻訳のことを思い浮かべて書いています)。わたげを飛ばし始めて5年。相手の翻訳さんのほうから、小さなわたげを飛ばしてくれることがあると、本当に本当に感激する。感謝の気持ちでいっぱいになる。

わたげを飛ばし続けていれば、いつかの春に必ず、ゆるぎない根をもった花を咲かせることができる。

いまは、あいたいというひとつの気持ちだけで、わたげを飛ばしつづければいい。

あいたいという気持ち、それだけでいい。

きょうもこうして、わたげをとばしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年4月26日 (火)

わたげをとばす

たんぽぽが、わたげをつくりはじめた。

***

 ねがいごと   たんぽぽはるか

あいたくて

あいたくて

あいたくて

あいたくて

  ・・・

きょうも

わたげを

とばします

『のはらうたⅢ』 くどうなおこ 童話屋 より

***

あいたくて、あいたくて、遠くにいるだれかにあいたくて、わたげのようなその気持ちを春の風にのせてみる。

大変な状況にある今、このような思いを抱いているひとたちが、たくさんいるのではないだろうか、と思う。

遠くにいるだれか、自分の知らないだれかに対して、何かをしたいという気持ち。

元気で頑張っているよ、元気で頑張ろうねと、力強く伝えようとする気持ち。

まわりのひとやものに対する訴えかけるような強い願い。

強く切実な願いや、やさしくて心をあたためるような願い。人びとの思いはさまざまだけれど、どれもこれも、心の奥底に根をはる深い思いなのだと思う。

わたげは、やわらかなように見えてとても強いものなのだ。不安定な春の空気が、ときに突風を巻き起こそうとも、それに耐え、自分が想いを馳せるところへしっかりと着地する。その地中にしっかりと根を伸ばし、濃い緑の葉を広げ、いつか必ず、明るいほほ笑みのような花を咲かせるときが来る。

いま、たくさんのひとがわたげをつくりだして、飛ばしている。世界は、わたげでいっぱいなのだ。

ひとつでも多くのわたげが望んだその地にたどりつき、新しいいのちが芽生えることを願います。想いが届き、あたりを明るく照らしてしっかりと見守ってくれるような、やさしく強い花が咲きますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧